上原 良司。 特攻隊員は「志願して死んでいった」のか 上官は「必ず死んでこい」と言った(PRESIDENT Online) 赤かぶ

特攻隊員は「志願して死んでいった」のか 上官は「必ず死んでこい」と言った(PRESIDENT Online) 赤かぶ

上原 良司

今回紹介する見逃し動画配信は、NHK「歴史秘話ヒストリア 特攻 なぜ若者は飛び立ったのか 」12月11日(水)放送分です。 今回の「歴史秘話ヒストリア」は、太平洋戦争末期の陸軍「と号部隊」特攻隊員の心境がテーマです。 「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」 と両親への手紙(遺書)「所感」を残し、 愛機・三式戦闘機「飛燕」で 沖縄の米軍機動部隊で特攻し散華した 特攻隊隊員第56振武隊・上原良司少尉の 揺れ、うつろい、それでも考え続けた心の内を見つめる秘話が語られます。 上原良司少尉は戦況が悪化する中 学徒出陣で慶應義塾大学を 繰り上げ卒業後、 陸軍に入隊し、当時声を大にして言えない 自由主義を標榜しており、 当時の日本の権力主義、全体主義に疑問を感じていました。 そして当時思いを寄せる女性への想いなど 「所感」にはそんな想いが込められています。 岩田剛典さんが上原良司少尉の手紙を読んで感じた事はに投稿しました。 普段は「歴史秘話ヒストリア」は観ないので、 番組放送後に岩田剛典さんの声での出演を知って 動画や見逃し動画配信を探している方や 再放送は、2020年1月28日火曜 午後3時08分~ 午後4時00分の予定ですが、 それまで待てない方に・・・ この投稿では岩田剛典さんが声の出演をした「歴史秘話ヒストリア」の見逃し動画配信の案内と・・・ 岩田剛典さんが朗読した手紙(遺書)「所感」の内容をシェアします。 ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな という歌を綴ました。 スポンサードリンク 昭和20年5月11日出撃 昭和20年(1945年)5月11日、 上原良司少尉は、 愛する人を守る為、 自由主義者として 日本が自由な国になる事を願いながら、 愛機三式戦闘機「飛燕」に乗り、 天国で待つ、きょうこちゃんや 先立った二人の軍医の兄に出会う為 陸軍知覧基地から、 沖縄県嘉手納沖で遊弋する 米国海軍空母を目掛け出撃し、 散華しました。 上原良司大尉(最終階級)、享年22歳。 遺書「所感」の本 上原良司少尉の遺書「所感」は、書籍「あゝ祖国よ恋人よ きけわだつみのこえ」に綴られています。

次の

あゝ祖国よ恋人よ きけわだつみのこえ 上原良司〔新版〕

上原 良司

『きけわだつみのこえ』に最初に掲載されている上原良司の「所感」。 文中に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」とある。 昭和20年5月11日朝6時半に鹿児島県知覧飛行場を離陸、午前9時に敵艦船に突入。 22歳で逝った良司は、生きていれば今年で90歳になる。 昨年10月発行の同窓会の『会員名簿』(黄表紙)75頁、松中61回「物故者」に良司の名がある。 同じ欄に、私の父の名もある。 良司と父が同級生だったことは、だいぶあとになって知った。 父の中学時代のアルバムには、一緒に写ったものが何枚もある。 歴史上の人物として人々の記憶のなかにある良司を、随分と昔の人だと思っていたから、父と同じと知って不思議な気がした。 松本城二の丸にあった松本中学校へ昭和10年に入学、その年7月21日から3日間、現在の校舎へ引越した。 「天守閣を見上げた我々も、こんどは天守閣を見下すようになった」と良司は作文に書いた。 父も、引越し作業の様子を日記に書いている。 敗戦時に病気で入院中だった父は、生きて故郷に戻った。 34年前に亡くなったが、生前に戦争のことは何も話さなかった。 同期に巣山正春先生がおられる。 深志20回の私は階段教室で化学を教わった。

次の

上原苗字別の有名人出身大学

上原 良司

人物・来歴 [ ] 軍に入隊まで [ ] (現・)に医師の父・上原寅太郎、母・よ志江の三男として生まれ、旧穂高町(現・)有明で育つ。 遠縁にあたる「有明医院」を継いだ上原家は裕福で子供らに文化的な生活を送らせており、近くので家族みんなで写真の撮影会をしたり、家のに近所の子供たちを集めて大会を開催したり、広い裏庭ではをやったり、またや登山といった遠出も頻繁に行っていた。 また、楽器にも親しんでおり、中でも2人の兄は、上原はの演奏が得意であった。 祖父がだったこともあってか、上原家の子供たちは文才に恵まれ 、また、ものを書く習慣が備わっていた。 上原も厖大な遺稿を遺しており、に入学したときには「僕が先づ中学校へ来て驚いた事は、他の中学校にはないような、自治といふ精神や古い歴史がある」という気持ちを書き遺し、松本中学校の新校舎が完成したときには近くのと比べて「天守閣を見上げた我々も、こんどは天守閣を見下すようになった。 天守閣よ聞け、我が新校舎にはかなわないだろう」などと書いている。 しかし寡黙で控えめな上原は学校で目立つ方ではなく、鉱物研究やにも熱中していたが、周囲から見るとちょっとすました印象であったという。 1941年、に入学。 に慶應義塾大学に進学するが、大学生活で熱中したのがの者だった。 クローチェはが進める に反対し、自由の尊さを訴えた人物であるが、このことが上原に大きな影響を与えた。 特に歴史哲学者ののベネデット・クローチェ論の著作『クロォチェ』が愛読書となった。 学徒出陣 [ ] 入学した12月に太平洋戦争が始まったが、この時点で上原は周囲の学友たちと一緒に、ラジオ臨時ニュースのでの日本軍の大戦果に大歓声を挙げ、宣戦のの奉読を脱帽して聞き、首相の演説を聞いて胸を熱くするなど、一般の学生たちと同じような開戦への感想を日記に記している。 その後、大学生の徴兵猶予停止によってとなって、大学を繰り上げ卒業し、明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会に参加している。 1943年12月1日に陸軍入営。 に配属となり、第2期として入校、にて操縦訓練を開始した。 軍に入隊前は、一般の学生と同じように日本の勝利を喜んでいた上原であったが、軍で今までの学生生活とは全く異なる厳密な上下位階制且つ命令絶対の世界を体験し、また理不尽な暴力や叱責、無内容な精神訓話や無意味な訓練を強要されるうちに、学生時代に培った「自由主義思想」が強化されていった。 上原は上官などに臆することなく、軍内で「自由主義思想」に基づく自分の考えを主張した。 熊谷陸軍飛行学校では、訓練の感想などを記入して上官に提出する「修養反省録」というがあったが、上原はその「修養反省録」に「教育隊二人格者少ナキを遺憾トスル」などと堂々と上官を批判するような記述を行い、上官からは「貴様ハ上官ヲ批判スル気カ」「学生根性ヲ去レ!」などと朱書きで叱責の返事がなされている。 しかし、上原はその叱責に全く臆することなく「人間味豊カナ、自由二溢レ、其処二何等不安モナク、各人ハ其ノ生活二満足シ、欲望ハアレドモ強クナク、喜ビ二満チ、幸福ナル真二自由ト云フ人間性二満チ溢レテ、コノ世ヲ送ラントスル時代が近ヅキツツアル。 ソレハ自由主義ノ勝利二依ッテノミ得ラレル。 クローチェハ云ヘリ。 今国家二特殊ナル使命ハアリ得ズ。 」などとクローチェや自分が標榜する「自由主義」が勝利すると明記し、さらに上官を激怒させている。 にを卒業、この頃から上原は自分の考えを「戦陣手帳」と名付けた小さな手帳に記すようになるが、その中には「自由ハ人間性ナルガ故二、自由主義国家群ノ勝利ハ明白デアル。 日本ハ思想的二既二敗レテ居ルノダ。 何デ勝ツヲ得ンヤ」「日本ノ自由ノタメ二、独立ノタメ二死ヲ捧ゲルノダ」と、すでにファシズムのイタリアや、のが敗れようとしているように、同じで国家主義のが、個人主義、自由主義のやに戦争に負けると確信していたが 、同時に日本のために飽くまでも命を捧げて戦い抜く決意もしていた。 調布基地で受領した愛機三式戦闘機「飛燕」の主翼の上に座る上原 1944年8月から鹿児島県知覧の第40教育飛行隊に配属となり連日激しい訓練を繰り返した。 この知覧での訓練はかなり過酷であった模様で、11月までの4ヶ月間は筆まめな上原が家族や知人に一切手紙すら出せないような状況であった。 一転して、12月に着任したにおいては、訓練日程も比較的余裕があり、を卒業したばかりの女性事務員たちと交流を持ち、テニスラケットやボールを貸してもらって、慶應義塾大学日吉キャンパスのテニスコートを懐かしみながら友人とテニスを楽しんだりしていた。 目達原基地は特攻隊員の訓練基地で、ここで訓練するということは特攻隊員になるということを意味し、上原らもそれを理解しており、1945年3月6日に特攻の志願が募られたときには、上原は一緒に訓練していた80名の搭乗員と特攻に志願した。 特攻を志願した上原は故郷への帰郷を許されて、4月6日に最後の帰郷をした。 上原は家族や親戚や幼なじみと会ったが、誰にもこれが最後とは告げなかった。 しかし幼なじみで親友の犬飼五郎には、「死地に赴くのに喜んで志願する者は一人だっていない。 上官が手をあげざるをえないような状況をつくっているのだ。 仕方ない と心で泣き泣き手をあげているのが本当の気持ちさ」と語り、家族と一夜を過ごしたときには、酒を飲みながら「日本は敗れる。 俺が戦争で死ぬのは、愛する人たちのため。 戦死しても天国にいくからにはいないよ」と語っている。 軍に入隊当初上原は「修養反省録」に「靖国ノ神トナル日ハ近ヅク」などと書いており、考えが大きく変化したことがうかがえる。 上原は、4月15日ににて、で第57期少尉を隊長として編成された陸軍特別攻撃隊に配属となった。 第56振武隊は隊長の池田以外の隊員は、上原と同期の第2期特別操縦見習士官で編成された全員将校の部隊であった。 上原らは調布飛行場で乗機となるを受領し、機体の整備と訓練を行った。 ここでは、気の置けない同期生たちとざっくばらんな会話をしていたようで、面会に来た妹の清子が、上原と同期生たちが「俺と上原と一組か。 大物をやれよ。 小破なんか承知せんぞ」 「当然だ。 空母なんか俺一人で沢山だ」「これがニューヨーク爆撃なんていうなら喜んで行くんだがな。 死んでも本望だ」「心残りはアメリカを一遍も見ずに死ぬことさ。 いっそ沖縄なんか行かず、東の方に飛んで行くかな」「アメリカに行かぬままお陀仏さ」「向こうの奴らは何と思うかな」「ほら、今日も馬鹿共が来た。 こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」などと語り合っているのを聞いている。 5月3日に上原ら第56振武隊は陸軍の特攻基地であるに到着した。 には、上原ら陸軍特別攻撃隊員たちが食事をした「富屋食堂」があったが、上原はそこの女将に「小母さん、日本は負けるよ」と来店するたびに呟いていたという。 鳥濱は上原の呟きを聞くと「そんなことはいってはいけない。 ここには憲兵もいるんだから、気をつけなさいよ」と優しく諫めていた。 1945年5月11日 [ ] 出撃前に円陣を組んで「男なら」を合唱する第55振武隊及び第56振武隊の特攻隊員、左から3人目が上原 1945年5月6日、「」(陸軍作戦名「第六次航空総攻撃」)に第56振武隊の第一陣として、隊長の池田と、上原の同期の第2期特別操縦見習士官の少尉と少尉と少尉の4名が出撃して散華した。 1945年に開始された「菊水六号作戦」(「第七次航空総攻撃」)で上原は、同期生の少尉と少尉の3名での特攻出撃を命じられた。 午前6:00、上原ら第56振武隊の3名は、同じ三式戦闘機「飛燕」で編成された第55振武隊の隊員と円陣を組むと、手拍子をとって『』を合唱し、その5分後の午前6:05に、各々愛機のに乗り込んで知覧基地から出撃した。 この日出撃した三式戦闘機「飛燕」は上原の第56振武隊が3機、第55振武隊が3機であるが、上原機がF4Uコルセアを突破しこの両艦を攻撃した「トニー」の1機であったのかは、はっきりしない。 マレ島に停泊する上原らの「飛燕」に突入された駆逐艦「エヴァンス」、白い4つの点線が特攻機に突入された位置 まず、アメリカ軍側の記録によれば、「エヴァンス」を攻撃に向かった特攻機が、「トニー」と海軍の「ケイト(九七式艦上攻撃機)」と「ジル()」と「ジュディ()」合計7機とされているなかで 、日本軍側の記録によれば、この日は「九七式艦上攻撃機」と「彗星」は出撃しておらず、「九七式艦上攻撃機」は「天山」の誤認識で、「彗星」は三式戦闘機「飛燕」の誤認識と思われる。 同盟国ドイツのエンジンのライセンス生産品であるを搭載した陸軍の三式戦闘機「飛燕」と海軍の艦上爆撃機「彗星」は機影が似通っていることから、アメリカ軍から誤認識されることが多かった。 大量に押し寄せる特攻機と激戦を繰り広げていた「エヴァンス」に向かった7機の三式戦闘機「飛燕」と「天山」の陸海軍混成特攻部隊のうち、まず「彗星」と誤認された「飛燕」が、「エヴァンス」の対空砲火を被弾しながらも、付近に命中して、左舷に大穴を開けて、下部室と前部兵員居住区を水没させた、さらに「飛燕」がもう1機、緩降下で左舷より「エヴァンス」に接近してきたが、主砲の の直撃によって撃墜された。 息つく暇もなく、3番目の特攻機(機種不明)が猛烈な速度で後甲板に突入して、乗っていた搭乗員の遺体と爆弾を後部室と機械室にまき散らし、爆弾は後部機械室で爆発して、「エヴァンス」は操舵不能となって、動かない攻撃目標となってしまった。 その後も、戦闘空中哨戒隊のF4Uコルセアをかわした「オスカー()」や「」を搭載した「ベティ()」などの特攻機が次々と来襲して両艦への攻撃は続き、「エヴァンス」には合計4機、「ヒューW. ハドレイ」には合計3機の特攻機が命中した。 両艦ともアメリカ軍水兵の勇敢なで沈没だけは回避したが、合計211名の死傷者を被って大破し、後日修理は断念されて除籍された。 「飛燕」に突入されて大破した「エヴァンス」の艦長は「広範囲に、よく協同行動をとって実施された特攻攻撃は、2隻の猛射を続けている駆逐艦でも手に負えない」とこの日の日本軍の巧みな特攻攻撃を評価している。 戦闘終了後「エヴァンス」は8時間もの間、浸水抑止と消火活動に追われたが、残骸のなかから2名の特攻隊員の遺体が発見されている。 その特攻隊員の遺体からはアメリカ軍の空母の図解入りの小冊子と、九州付近の海図が見つかったが、遺体が誰であったかは不明である。 日本軍は陸海軍で特攻機援護のために90機の護衛戦闘機を出撃させたが、アメリカ軍の迎撃は激烈で、は、この日に出撃した陸軍の特攻機の殆どが敵艦隊に達していないものと判断していた。 しかし、この日の戦闘はアメリカ軍にとっても非常に厳しいもので、大破した両駆逐艦の上空支援をしていたF4Uコルセア隊が、激しい空中戦で機銃弾を全弾撃ち尽くし、最後は隊長が苦闘する両艦に「我が隊は弾丸を撃ち尽くしたけれども、貴艦のそばを離れない」と無電で報告するや、突入しようとする特攻機の進路上に割り込んで特攻機の突入の妨害をするなどして、弾丸を撃ち尽くした機で駆逐艦の対空戦闘を援護せざるを得なくなるほど追い詰められていた。 そして、戦闘空中哨戒のF4Uコルセアとレーダーピケット艦を突破した中尉と少尉の2機の海軍のが、艦載機発艦中の率いる(高速空母機動部隊)上空まで達し、ミッチャーのであった正規空母に突入して、同艦を大破炎上させ、戦死者・行方不明者は402名、負傷者は264名にのぼった。 この日アメリカ軍が「バンカー・ヒル」と「エヴァンス」と「ヒューW. ハドレイ」の3艦で被った877名の死傷者は、特攻によって1日で被った最多の人的損害となった。 この日、上原とともに出撃した陸軍航空隊の特攻機は約80機であったが、機体の故障等で引き返してくる機も多かった。 しかし、上原機が帰還することはなく、のアメリカ軍機動部隊に突入して戦死したとされた。 享年22。 なお、2人の兄、長男・良春はを卒業後に陸軍となり、終戦直後の9月にの捕虜収容所で戦病死。 次男・龍男も医学部卒業後に海軍軍医となって、9月に沖でと共に戦死しており、上原家の3人の兄弟は全員戦争によって命を失った。 父寅太郎は大いに悲しみ、いつまでも面影を忘れないために3人の胸像を刻ませた。 「有明医院」は妹清子が医師の夫と結婚して引き継いでいる。 遺書 [ ] 上原良司の碑(あずみ野池田クラフトパーク) 上原の遺書と呼ばれるものは三種ある。 愛読書『クロォチェ』の見返しに綴られた1943年付の文章、封筒に入れられ実家に残された遺書(特攻出撃前の1945年4月に上原が帰郷した際に記述、日付なし)、知覧で取材活動をしていた陸軍報道班員の報道用のノートには、誰彼となくそれぞれの経歴、感想、伝言を書きつけるようになったが、その中に遺されていた、上原が出撃前夜に記述した『 所感』と称した絶筆である。 ただし、実際の『所感』は、報道用ノートへの寄せ書きではなく、の報道用7枚に書かれており、高木の主張とは異なる。 また、高木が上原に「今の思いを書いてください」を個別にお願いして書いてもらったという報道もあり 、高木が『所感』を上原から託されたとする状況は、高木によって脚色を加えられていることも指摘されており、事実は不明である。 高木はその絶筆を上原が戦死直後の6月に、直接遺族の両親と妹達に届けたと主張しているが、実際に遺族に届けられた時期も不明である。 『所感』は、戦後まもなくの1949年1月に出版された『週刊朝日』(1949年1月23日号)「第二はるかなる山河に」という記事に、のの遺書とともに掲載され、のちの『』出版のきっかけともなっている。 そして『きけ わだつみのこえ』に、上原の遺書は、高木が遺族に届けたとする『所感』と、1945年4月に上原が故郷に帰郷したさいに家族に残した遺書の2通が掲載された。 10月22日、故郷の池田町に上原の記念碑(石碑)が建立され、『所感』の一部が碑文に刻まれた。 自由主義について [ ] 自由の勝利は明白な事だと思います 明日は自由主義者が一人この世から去ってゆきます 唯願はくは愛する日本を偉大ならしめられんことを 国民の方々にお願いするのみです — 『所感』上原良司 上原はベネデット・クローチェやその評論である羽仁五郎著「クロォチェ」に強く影響を受け、自らをベネデット・クローチェと同じ「自由主義者」と評し、その文章には「強い個性」、「人間性」が現れており、戦後間もなくの頃から長く読み継がれている。 『所感』で上原は、自らを「自由主義者」と称しながらも、特攻を実行する「自殺者」に過ぎないと客観的な視点で相対化している。 さらに国家主義、権力主義の国家は「必ずや最後には敗れる」とまで断言していることで、当時の日本の国家主義やその指導者に対する『きけ わだつみのこえ』に登場する多くの学徒兵の理論的批判の代表例として引用され、特攻隊員の多くの遺書や手記の中でも特筆すべき例外的な存在とされているという指摘もある。 祖国日本の理想型について [ ] 愛する祖国日本をして嘗ての大英帝国の如き大帝国たらしめんとする私の野望は遂に空しくなりました 真に日本を愛する者をして立たしめたなら日本は現在の如き状態には或は追ひ込まれなかったと思ひます 世界何処に於ても肩で風を切って歩く日本人これが私の夢見た理想でした — 『所感』上原良司 祖国日本や枢軸国側の国家主義、権力主義は否定する一方で、上原はを理想としている。 一見矛盾しているように見えるが、これは「自由主義」「民主主義」を標榜しながらも大帝国を築き上げた大英帝国を、上原が祖国日本の理想型としていたためである。 しかし、後に大英帝国は解体されながらも、「自由主義」「議会制民主主義」はその後の島嶼国となったにもしっかりと継承されており、「自由主義」の理想を大英帝国の理想と結びつけたのは、結局は誤りであったという指摘もある。 によれば、2018年にイギリスのより『所感』を収蔵したいとの要請が遺族になされている。 特別攻撃隊について [ ] 栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊とも謂ふべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ身の光栄之に過ぐるものなきを痛感致して居ります 空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が云った事は確かです 操縦桿を採る器械 人格もなく感情もなく勿論理性もなく、只敵の航空母艦に向って吸ひつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです 理性を以て考へたなら実に考へられぬ事で強ひて考ふれば彼等が云ふ如く自殺者とでも云ひませうか 精神の国、日本に於てのみ見られる事だと思ひます こんな精神状態で征ったなら勿論死んでも何にもならないかも知れません 故に最初に述べた如く特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思って居る次第です — 『所感』上原良司 特攻出撃前に故郷に帰郷した際、上原は幼なじみの親友に「上官が手をあげざるをえないような状況をつくっているのだ。 」などと特攻の志願を強制されたようなことを語ったとされているが 、託された状況は出典ごとに異なり一定しないものの、軍の検閲無しで陸軍報道班員高木に託された上記『所感』に書いている通り 、上原は特攻隊員に選ばれたことについては光栄であったと感じており、また『所感』の最後は「心中満足で一杯です」で締められている。 これは、祖国日本の「国家主義」に痛烈な批判を向ける理性的側面を持ちながらも、特攻隊員に選ばれたことを光栄として「この上は只、日本の自由独立の為、喜んで命を捧げます。 」と特攻出撃命令に抗さずに素直に死に赴くといった、上原の人間らしい苦悩に満ちた二面性を表しているが、上原の『所感』を含めた遺書は、その精緻で無謬な思想に相応しい内容を求められ、字句の削除などの恣意的編集が行われ、本来上原の持つ二面性を希薄にした上で、『きけ わだつみのこえ』などの書籍に掲載されてきたという指摘もある。 上原は複数の女性に恋愛感情を抱いていたという指摘もある。 遺書「所感」の後半に「天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思う」と記されているが、その彼女こそが、「きょうこちゃん」ことである。 上原は上原家と石川家と家族同然の付き合いをしていくなかで、「きょうこちゃん」に好意を寄せ続けて、日記にもたびたび登場していたが、上原の想いは叶うことなく「きょうこちゃん」は父親が纏めた縁談によって、に陸軍士官の大尉と婚約している。 しかし、「きょうこちゃん」は結婚直後の1944年にで病死しており、上原は「きょうこちゃん」の死を知ると、その日の日記に「俺は本日死したり」と記述している。 そして、さらに「己ガ冾子チヤンヲ貰ツタラ決シテ死ニハサセナカツタノニ。 野口大尉ノ無智。 彼ハ真ニ彼女ヲ愛シテヰナカツタノダ。 若シ愛シテ居レバ彼女ハ救ヘタノダ。 一時ノ慾望。 或ハ政略的結婚ノタメニ彼女ヲ死ナセタコトハ許サレヌコトダ。 彼女ハ不幸ダツタ」と激情のままに野口を非難するようなことも記述しているが、1944年初めの入籍時点ではすでに「きょうこちゃん」は病魔に冒されており、それを知った上で受け入れた野口に対して、石川家はこの結婚を不幸とは捉えていなかったという。 上原は「きょうこちゃん」に秘めた想いを抱きながら、師岡みゑ子とも心をかよわせていた。 上原が諸岡に恋愛感情を抱いたきっかけは、師岡の声が「きょうこちゃん」に似ていたからだという。 戦後に戦記作家となった元陸軍報道班員の高木が、自ら制作に関与しパーソナリティもつとめたの「愛の戦記」という番組において、上原と師岡の恋愛エピソードも紹介された。 この番組は「たくさんの資料で、肉を付け、心を込めて放送します」と高木が脚色を加えることを匂わせており、かなりの脚色が加えられて、事実とは異なっていた。 しかし、上原にとってあくまでも本命は「きょうこちゃん」であり、師岡ものちに「きょうこちゃん」の存在を知って、戦後のインタビューで「正直にいって,冾子さんがいたっ てことがわかり,わたしの気持ちは,良司さんを眺められることができるようになりました。 良司さんと冾子のことを知らなかったら,たまらなかったと思うんですよ。 冾子さんがいて下さったことで、わたしはある程度解放感を感じました」と答えている。 また、上原の日記には他にも数人の女性の名前が登場しており、「きょうこちゃん」への告白に躊躇しながら、他の女性も気になるといったような、上原の若者らしく揺れ動く気持ちを表している。 しかし、上原は『所感』に代表されるその高潔な思想に相応しい恋愛観を持っていたことにするため、ことさら石川冾子に対するが強調されて、石川冾子以外の女性についての記述は、上原の日記などを掲載する際には意図的に削除されてきたという指摘もある。 演じた俳優 [ ]• - 映画『』上原をにした芥川雄三少尉役• - 『』2019年12月11日放送回「特攻 なぜ若者は飛び立ったのか」で『所感』を朗読、岩田は上原と同じ慶應義塾大学卒業 関連項目 [ ]• 脚注 [ ]• , p. 163• - 「慶應義塾と戦争 アーカイブ・プロジェクト」• - 「慶應義塾と戦争 アーカイブ・プロジェクト」• , pp. 99-104• , p. 168• , p. 170• , p. 241• , p. 173• , p. , p. , p. , p. , p. 103• , p. 103• 「展覧会 慶應義塾と戦争III 慶應義塾の昭和二十年」資料番号A-13 特攻出撃10日前の隊員の雑談を記録した手帳(上原良司妹・清子) 昭和20年5月1日条上原清子蔵• , 電子版, 位置No. 2003• , pp. 104-105• , p. 264• , p. 281• , p. 265• , p. 159• , pp. 334-335• , pp. 341-342• , p. 206• , p. 159• , p. 265• , p. 159• , p. 161• , p. 201• , p. 162• , pp. 318-324• , p. 202• NHK 歴史秘話ヒストリア「特攻 なぜ若者は飛び立ったのか」2019年12月11日放送• , p. , p. 毎日新聞『信州・歴史探訪 特攻隊・上原良司さんの碑(池田町) 出撃前夜の思い刻む』2016年11月10日記事• 穂苅稔編『新版有明山に日かげさし』(上原良司の灯を守る会,2013 年),P47• あづみ野池田クラフトパーク内『きけ わだつみのこえ』石碑碑文• あづみ野池田クラフトパーク内『きけ わだつみのこえ』石碑碑文• , p. 173• NHK 歴史秘話ヒストリア「特攻 なぜ若者は飛び立ったのか」2019年12月11日放送• , p. , p. , 電子版, 位置No. 3998• , p. - 「慶應義塾と戦争 アーカイブ・プロジェクト」• , p. 274 参考文献 [ ]• 上原良司『あゝ祖国よ恋人よ きけわだつみのこえ 上原良司』、2005年。 高木俊朗『知覧』、1965年。 高木俊朗『特攻基地知覧』〈〉、1979年。 (1965年版の再版・修正版)• 高木俊朗『戦記作家高木俊朗の遺言』1、文藝春秋企画出版部、2006年7月。 高木俊朗『戦記作家高木俊朗の遺言』2、文藝春秋企画出版部、2006年7月。 生田惇『陸軍航空特別攻撃隊史』、1977年。 原勝洋『真相・カミカゼ特攻 必死必中の300日』、2004年。 押尾一彦『特別攻撃隊の記録 陸軍編』光人社、2005年。 渡辺洋二『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』光人社〈光人社NF文庫〉、2003年。 白井厚『いま特攻隊の死を考える』〈岩波ブックレット〉、2002年。 デニス・ウォーナー『ドキュメント神風』上、時事通信社、1982a。 デニス・ウォーナー『ドキュメント神風』下、時事通信社、1982b。 Rielly, Robin L. 2010. KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II. Mcfarland. 外部リンク [ ]• - 「慶應義塾と戦争 アーカイブ・プロジェクト」.

次の