ろ号作戦。 ニュージョージア島の戦い

天号作戦

ろ号作戦

1 2 3 4 5 6 7 昭和十九年六月十五日の午後一時過ぎ、硫黄島南方海上二四〇キロには、ジョセフ・J・クラーク少将が統率する第58・1および4の任務群からなる機動部隊が姿を現わし、護衛駆逐艦は大波に翻弄されていた。 雨雲が低くたれこめ、大粒の雨が横なぐりに飛行甲板の作業員の頬を打っていた。 七隻の空母から、次々とグラマンF6F戦闘機が発進していった。 目標はIWO・JIMA。 この日、午前四時三十分から米機動部隊主力はサイパン島に対する攻撃を開始しており、ターナー提督の上陸作戦開始命令によって、第2海兵師団 (総兵力二万一七四六名)と第4海兵師団 (総兵力二万一六一八名)は、午前八時四十四分、六〇〇隻の上陸用舟艇に分乗して、上陸を開始していた。 クラーク少将のこの日の硫黄島攻撃は、サイパン上陸作戦の側面的な支援であり、その目的は制空権を確保することであった。 1 「あ」号作戦発動 硫黄島に向かった米艦載機の攻撃目標は、同島に展開している基地航空隊の殲滅 (せんめつ)にあった。 硫黄島での死闘の前ぶれは、嵐とともにやってきたのである。 サイパン島に対する米海兵隊の上陸作戦の報告を受けた 豊田副武連合艦隊司令長官は、瀬戸内海柱島に停泊中の旗艦「大淀」から同日午前七時十七分、連合艦隊電令作第一五四号をもって、「あ」号作戦決戦発動を下命し、午前八時には「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」と、艦隊全員を激励した。 「あ」号作戦は、昭和十九年四月中旬、新連合艦隊司令部要員が東京に集められ、海軍軍令部との間に協議を重ね、四月末に一応案がつくられ、五月二日陸海軍合同の御前会議研究の成果によるものであった。 この作戦の目的は、連合艦隊の主作戦海域を中部太平洋以南からニューギニア北岸に至る正面とし、同方面に決戦兵力を集結して、一挙に敵進攻兵力、なかんずく機動部隊を撃滅して、敵の反攻を全面的に挫折させることにあった。 そのためには、決戦海面周辺に基地航空部隊を配備し、機動部隊の全力を集中して、決戦を挑もうとするものであった。 連合艦隊司令長官 豊田副武(そえむ)大将 しかし、この時点で日本軍の航空戦力は、米軍に比べてかなり低下していることがわかっていたし、補給輸送の確保すらおぼつかない情勢が随所に露呈していたので、広域の正面で邀撃作戦を計画することは無理な状態だった。 余談だが戦後、日本陸海軍間の反目が喧伝 (けんでん)されているが、この時点で現実には航空燃料の不足という事態に直面して、陸海軍の協力ぶりがはっきりと記録に残されている。 パラオ島の海軍航空隊は哨戒のための出動回数が増大し索敵海面が拡大するにつれて、燃料に不足をきたし、第761航空隊司令は次のような記録を残している。 これに対してアメリカ軍は、この日中国大陸奥深くに配備したB29をもって、北九州八幡地区に対する爆撃を敢行するとともに米機動部隊は日本の基地航空隊に対する攻撃をも開始した。 2 「グラマン」 対 「零戦」 「零戦」に対抗して開発されたグラマンF6F「ヘルキャット」 サイパン島に上陸する米海兵隊 サイパン上陸が行われているとき、硫黄島警備隊 (指揮官は和智恒蔵海軍中佐、現硫黄島協会会長)では、米艦艇の電話を傍受しており、同島近くに米軍機動部隊が接近しつつあることを知っていた。 しかし、天候が極めて不良であり、スコールの激しい状況の中で果たして敵が来襲するかどうかは疑わしかった。 だが、午後一時四十五分、同島の電波探信儀 (レーダー)は、硫黄島に接近中や敵航空幾を捕捉し、ただちに「零戦」三七機を発進させた。 しかし日本軍の戦果は無残なものであった。 未帰還機二八機、帰還できたもののうち、翌日の戦闘に使用できるもの、わずかに三機という状態であった。 技術の未熟さもさることながら、かっての名機「零戦」も、新鋭戦闘機F6Fにはその性能上全く歯がたたなかった。 しかも、硫黄島上空に飛来した米機は、地上にあった第901航空隊の陸攻三機を炎上させ、四機にもかなりの損害を与えたのであった。 いっぽうアメリカ軍の損失は、出撃六〇機のうち、硫黄島ではわずかに二機に過ぎなかったと発表されている。 クラーク少将の率いる機動部隊は、その日の攻撃が悪天候のために、予期の効果をあげえなかったとして、翌十六日に再び戦爆連合約一〇〇機を硫黄島に差し向け、地上にあった戦闘機六三機を炎上させてしまった。 3 サイパンの攻防 他方、「あ」号作戦決戦が発動されて、その主力となる第1機動艦隊はフィリッピンの中西部にあるギマラスを午前八時に進発、先にバチャン泊地から出撃した渾部隊 (第1航空戦隊、「大和」「武蔵」など)と十六日に洋上で合流し、サイパン方面に向かった。 十八日午後、基地航空隊と機動部隊の索敵によって、三時四十分に艦隊の東方三八〇カイリに、三群からなる敵機動部隊を発見したが、敵との交戦になれば、飛行機の収容が夜中になることを考慮して、機動艦隊指揮官はその攻撃を翌十九日に延期し、日米両艦隊の激突は十八日には行われなかった。 十九日午前六時三十四分サイパン南西一六〇カイリに米機動部隊を発見、 小沢機動部隊指揮官は第1航空戦隊 (「大鳳」「翔鶴」「瑞鶴」)から第一次攻撃隊を発進させた。 前日、大本営海軍幕僚長を経て、天皇陛下から次のようなお言葉を賜っていたので、機動艦隊の将兵は士気旺盛であった。 「此ノ度ノ作戦ハ国家ノ興隆ニ関スル重大ナルモノナレバ、日本海海戦ノ如キ立派ナル戦果ヲ挙グルヨウ作戦部隊ノ奮励ヲ望ム」 第1機動艦隊指揮官 小沢治三郎中将 戦艦「大和」および「武蔵」を率いてこの作戦に参加した宇垣纒 (まとめ)海軍少将は、その日記『戦藻録』に「感激の極、此の一戦を以て聖慮を安んじ奉らん事を期す」と述べている。 小沢機動部隊の 旗艦「大鳳」は第一次攻撃隊を発進させた直後、八時十分米潜水艦「アルバコア」の雷撃を艦首近くの左舷に一発受けたが、浸水が多少あったにもかかわらず、三〇ノットの速力を出していた。 ただ前部の飛行機昇降装置が故障したために、応急修理を急いでいた。 しかし、魚雷の命中した個所にあったガソリンタンクに破孔が生じ、揮発油ガスが充満していたためであろうか、応急修理が終ったあと午後二時二十分、突然大爆発を起こして沈没した。 「大鳳」が沈没したために、第1機動艦隊司令部は、駆逐艦「若月」に移り、四時六分さらに重巡「羽黒」に移乗した。 なお米潜水艦「アルバコア」は、十一月七日津軽海峡の機雷原に進入し轟沈した。 4 惨たんたる戦果 他方、第1航戦第一次攻撃隊一二八機は未帰還機が多く、第2航戦 (「隼鷹」「飛鷹」「龍鳳」)第一次攻撃隊は目標を発見出来ず、約五〇機はグアム島に向かったが、着陸直前に米戦闘機の攻撃を受けて大損害を受けるという事態になっていた。 第3航戦 (「千代田」「千歳」「瑞鳳」)の第一次攻撃隊は六四機を発進させ、米空母一、大型巡洋艦一に命中弾を投下したことが確認されているに過ぎなかった。 第1航戦の二番艦「翔鶴」は同じく米潜水艦「ガバラ」による雷撃で午後二時十分沈没、第2航戦の「飛鷹」も、潜水艦の雷撃を後部に受け、行動の自由を失い、さらに艦上機の攻撃を受けて、六月二十日午後六時三十分沈没した。 「隼鷹」も煙突付近に一弾を受け、「瑞鶴」も艦橋付近に被弾し、「千代田」も甲板後部に一発を食らった。 このほか、戦艦「榛名」と重巡「摩耶」も損傷を受けた。 機動部隊は、最後の期待をかけて、「天山」七機による夜間攻撃を敵機動部隊に加えようとしたが、ついにこれも不成功に終わり、マリアナ沖海戦は完敗となって、機動部隊は六月二十五日沖縄の中城湾に帰投した。 マリアナ沖海戦の失敗とともに、「あ」号作戦は終了を告げた。 なお「あ」号作戦は、機動部隊に全力投球させるとともに、点在する基地航空隊に対して、かなり期待をかけていたことは事実である。 連合艦隊電令作第一五八号 (六月十五日午後一時四十八分)は次のように述べている。 第五基地航空隊ノ作戦ハ次ノ方針ニ準拠シ指導スペシ 一、敵機動部隊が陸戦協力、基地ノ制圧或ハ補給等ニ拘束セラルルノ好機ニ乗ジ、攻撃集団ノ昼間強襲並ニ夜間雷撃隊ノ奇襲ヲ反覆シテ敵空母並ニ航空機ヲ分撃シ、漸減逐次「マリアナ」基地制空権ヲ奪回ス 二、当面使用基地ハ硫黄島、南鳥島、「トラック」「メレオン」「ヤップ」「パラオ」トシ機宜「マリアナ」基地ヲ使用スル だが基地航空隊の作戦も不成功に終わったと言わねばならない。 5 八幡空襲部隊の編成 十五日の米軍による奇襲攻撃に対して、大本営は同日午後六時十九分、「東」号作戦を発動し、本土南方海面索敵の措置をとるとともに、連合艦隊は第7空襲部隊と横須賀航空隊をもって、八幡空襲部隊 (指揮官松永貞市中将)を新たに編成し、その一部兵力をただちに硫黄島に配備させ、その主力を同月十八日までに同島に進出させ、米空母群の攻撃に当たらせようとした (八幡空襲部隊の総兵力は約三〇〇機)。 この時点から、硫黄島は米海軍に対する前進攻撃基地としての任務を付与されることになる。 すなわち、第5基地航空部隊電令作第一一八号によって、在硫黄島航空部隊はマリアナ方面の索敵攻撃を命じられた。 しかし、硫黄島付近の天候不良のため、六月十七日に硫黄島に飛来できた八幡空襲部隊の航空機は、わずか二機の陸攻だけであった。 これら二機の陸攻は十八日、ただちに索敵に出たが、敵影を発見することは出来なかった。 ただし、八幡空襲部隊の後継機は十八日までに行動可能なもの計二九機となって、指揮官松永中将も硫黄島に着任した。 翌十九日、硫黄島から陸攻八機が出撃し、敵を求めてサイパン東方に向かったが、敵の主力を発見出来ず、特設空母三隻を発見出来ただけであった。 この時すでに、前述したように機動部隊は「大鳳」および「翔鶴」を失うという悲劇に遭遇していたのであった。 連合艦隊司令部は、八幡空襲部隊に対して速やかに硫黄島に進出するように命じていたが、相変わらず天候不良のため戦闘機隊は進出が出来ず、二十一日現在での実動可能なものは陸攻二二機、「天山」二八機、「彩雲」一機、二式艦偵一機という状態であった。 しかも、マリアナ沖海戦の緒戦において、味方の被害が大きく、硫黄島以外の基地航空隊の使用可能な航空機も少ないということから、司令部は二十二日以降でなければ硫黄島進出が不可能と見られた八幡空襲部隊の作戦中止を命ぜざるをえなかった。 このことが戦局全体に大きく影響することはもちろん、国民の士気にもおおいに関係があるので、六月二十三日、大本営は次のように、事実とは異なる発表を行った。 「わが連合艦隊の一部は六月十九日マリアナ諸島西方海面において三群よりなる敵機動部隊を捕捉、先制攻撃を行い爾後戦闘は翌二十日に及び、其の間敵航空母艦五隻、戦艦一隻以上を撃沈破、敵機一〇〇機以上を撃墜せるものの決定的打撃を与えるに至らず、我方航空母艦一隻、付属油槽艦二隻及び飛行機五〇機を失えり」 マリアナ沖海戦は、パールハーバー攻撃に次いで二度目のZ旗が旗艦「大鳳」に揚げられ、日本海軍としては起死回生の大作戦であった。 日本海軍としては、ついにその後機動部隊の再建が不可能となり、近代海軍としての資格を失うまでにいなったのは、このマリアナ沖海戦の失敗が直接の原因であったといってよい。 その意味では、 マリアナ沖海戦は日本海軍最後の決戦であったといえる。 6 日本軍の戦況窮迫 軍事的失敗で退陣を余儀なくされた東条英機首相 B25爆撃機を発進させる米空母「ホーネット」 そして、 マリアナ沖海戦の大失敗と、サイパンの失陥とは、単に軍事的な敗北にとどまらず、七月十八日 東条内閣の瓦解 (がかい)へとつながる重大な政治的影響力をも持っていたことは見逃せない。 そして、そのような政治的、軍事的影響力を持った「あ」号作戦決戦の失敗は、現実にはアメリカ軍に日本本土への爆撃を可能にさせ、潜水艦基地をより日本本土へ接近して設置させることになり、日本の国力の消耗に拍車をかけさせ、日本の最終的な敗北へとつながっていくのである。 このような日本の運命の大転換期に、アメリカ側の攻撃目標として浮かび上がったのが、硫黄島だったのである。 アメリカがなぜ硫黄島を選んだかについては、本書の「おわりに」で結果論として指摘しているが、硫黄島での日米の死闘が展開される前に行われたアメリカの空からの制圧は、単にそれが上陸作戦のための準備というよりは、日本本土への接近のための重要なステップであった。 したがって、その後に生まれてくる硫黄島の上陸作戦そのものは、結果的に見て重要な作戦であったことは言うまでもないのだが、大東亜戦争全体を通じて見る限り、「あ」号作戦と結びつく初期の硫黄島空襲作戦も重要な意味を持っていた。 マリアナ海戦が日本側の大敗北に終った直後、 クラーク少将の率いる機動部隊は、硫黄島の第二次攻撃を敢行した。 「ホーネット」「ヨークタウン」など四隻の空母を基幹として、戦闘機五一機を発進させ、それぞれ五〇〇ポンド爆弾を搭載していた。 それは六月二十四日の午前六時のことであった。 この攻撃部隊が硫黄島上空に到達する前に、八幡空襲部隊 (戦闘機五九機、艦爆二九機、陸攻二一機)は全力を挙げて邀撃をかけた。 午前八時十五分、空中戦は開始された。 日本側はこの戦闘で二四機を喪失した。 しかも、敵機動部隊に三波の攻撃をかけたが艦爆七機と戦闘機一〇機もまた未帰還となってしまった。 八幡部隊は壊滅的な打撃を受けたことになる。 米軍の損失は、わずか、六機であった。 ニューカムの著書『硫黄島』によれば、日本軍は第一波では「雷電」「紫電」「月光」など計二九機、第二波の雷撃機二〇機全部、第三波では一七機を失ったと述べている。 この日の戦闘は午後六時三十分まで続いた。 八幡部隊の可動機は五〇機となった。 前日までその可動機は一二二機であったことを考えると、その被害は極めて大きかったと言わねばならない。 7 硫黄島制空権、米軍の手に 八幡部隊の松永中将は、翌二十五日、「零戦」八機、陸攻一機をグアムに派遣したが「零戦」一機がロタ島に到達しただけで、途中米軍機に撃墜された模様であった。 しかし横須賀航空隊は天候も回復したので、「零戦」七一機、「月光」五機を硫黄島に送り込むことに成功し、八幡部隊の可動数は二十五日には、一二三機となった。 そこで同部隊は二十六日と二十八日に、主として陸攻を出撃させ、敵空母や船団の攻撃に当てた。 七月三日には、硫黄島基地は可動機一二七を数えるまでになったが、米軍の攻撃を受けて三〇機の損害を出した。 しかも、翌七月四日のアメリカ独立記念日には、予期していた通り、午前四時二十五分から午後四時に至る間、計五回、延べ三五〇機による空襲を受けるとともに、夕方には米巡洋艦ならびに駆逐艦各八隻による艦砲射撃を受けるにいたった。 この日の米軍の攻撃は、八幡部隊にとって最悪のものであるとともに、最終的なものとなった。 来襲する敵四〇機を撃墜したものの、日本軍は未帰還機二〇機の他に、航空隊の地上施設等はほとんど焼失してしまった。 そして進出したばかりの八幡部隊は、六月二十四日以降の空襲により大損害を受け、七月四日になって、ついに所在戦闘機は使用不能となった。 「零戦」を硫黄島に急派したが、制空権を確保することはできなかった 七月四日をもって、硫黄島は完全に制空権を失い、その結果硫黄島の戦いは全く新しい局面を迎えることは必定であった。 新しい局面について述べる前に、日米双方から見た硫黄島の軍事的価値について次章で述べておこう。 ****************************************.

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ろ号作戦 ウィークリー任務効率化編成例【第二期】 | ぜかましねっと艦これ!

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7.戦艦大和・武蔵の昭和18年5〜7月の変更箇所 図は1943年7月の大和です。 ただし武蔵との違いは、ラッタル 赤 の部分のみで、この時期の艦橋構造物に関しては大和も武蔵も殆ど違いがありません。 1943年5月の入渠時の改装により、第一艦橋付近にあった空中線支柱や信号指揮所 いずれも黄色 は移設され、18cm海上見張用眼鏡のスポンソン 紫色 は拡大されました。 武蔵では以上の変更を竣工時に行っています。 また15m測距儀の上には21号電探 緑色 が装備されました。 先の説明にもありましたが、武蔵では1942年9月に装備済みです。 艦橋部の22号電探 水色 は大和が1943年5月、武蔵は1943年7月に装備しましたが、その後 大和が1944年3月、武蔵は1944年4月 18cm海上見張用眼鏡のスポンソン 紫色 の直下に移動されました。 大和、武蔵とも1943年5月と7月の工事で信号所甲板 白 は後部に2m程拡張されたと言われてます。 艦舷の艦窓 水色 は1942年10月の訓令対策にて1943年中頃までに塞がれたようですが、おそらく1943年の入渠時 大和が1943年5月、武蔵は1943年7月 だと思われます。 両舷副砲前後の25mm3連装機関砲 オレンジ色 は、武蔵は竣工時に装備していましたが大和は1943年7月に装備したとの事です。 大和は1944年2月25日〜3月18日までの間に両舷の15. 5cm副砲を撤去し12. 7cm高角砲や25mm機関砲を増設し、対空防御機能を強化してます。 上図は改装された後の大和の中央部です。 艦橋部のラッタル 赤 は武蔵との違いを示しています。 艦橋部の22号電探 水色 は18cm海上見張用眼鏡のスポンソンの直下に移動されました。 また第2艦橋横の150cm探照灯管制装置は25mm増設機関砲の火器管制装置 黄色 に換装されたようです。 艦橋基部の後部には兵員待機所 緑 が設置されています。 また撤去された7,8番探照灯の所には、艦橋と煙突の間にあった94式高射指揮装置 水色 が移設され、94式高射指揮装置の部分には、25mm増設機関砲用の火器管制装置 黄色 が設置されました。 3脚マストには13号電探 緑 が設置され、マストの後ろには電探室 緑 も設置されています。 これに伴い3脚マストも一部補強 黄色 されたとの事です。 前楼下部及び後楼廻りの25mm機関砲 黄色 のシールドは増設された25mm機関砲に移設され、同様に既設の12. 7cm高角砲 黄色 のシールドも下段の12. 7cm高角砲 緑 用に移設されました。 下部に増設された高角砲甲板 緑 の周囲には25mm機関砲 緑 が増設されました。 また後楼の横には増設した25mm機関砲用の火器管制装置 緑 が増設されています。 武蔵は1944年4月10日〜4月22日までの間に両舷の15. 5cm副砲を撤去し対空火器増強を行いましたが、12. 7cm高角砲の増産が間に合わず、電探や25mm機関砲の増設のみの強化に留まっています。 上図は改装された後の武蔵の中央部です。 艦橋部のラッタル 赤 は大和との違いを示しています。 艦橋部の22号電探 水色 は18cm海上見張用眼鏡のスポンソンの直下に移動されました。 また第2艦橋横の150cm探照灯管制装置は25mm増設機関砲の火器管制装置 黄色 に換装されたようです。 艦橋基部の後部には兵員待機所 緑 が設置されています。 また艦橋と煙突の間にあった94式高射指揮装置 水色 は撤去され、25mm増設機関砲用の火器管制装置 黄色 が設置されました。 7,8番探照灯も撤去されましたが、ここには25mm単装機銃が設置されたようです。 3脚マストには13号電探 緑 が設置され、マストの後ろには電探室 緑 も設置されています。 これに伴い3脚マストも一部補強 黄色 されたとの事です。 下部に増設された高角砲甲板 緑 の周囲には25mm機関砲 緑 が増設されました。 また後楼の横には増設した25mm機関砲用の火器管制装置 緑 が増設されています。 11.戦艦武蔵 捷一号作戦時 1944年10月 大和同様、この図ではマリアナ沖海戦後の6月末〜7月初めにかけて増設された25mm機関砲は描き込んでおりませんが、捷一号作戦時の武蔵の中央兵装は諸説あります。 例えば第1、第2照明灯を下ろし、噴進砲を積んだとか、単装機銃を積んだ等あります。 しかし、別項のリサーチの通り噴進砲を積むには時期的に不可能、また戦闘詳報に記録がない等がありますし、大和自体が探照灯を最後まで6基のままだったと考えると、第1、第2探照灯は降ろさなかった可能性が高いのではないかと推測しています。 第7,第8探照灯は大和同様撤去され、そこに単装機銃を搭載したというのが一般的です。 考証のページにを掲載していますので、これもあわせて閲覧ください。

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礼号作戦 (れいごうさくせん)とは【ピクシブ百科事典】

ろ号作戦

概要 ケ号作戦は、(昭和18年)1月下旬から2月上旬にかけて日本軍が実施したからの撤退作戦。 同年にガ島撤退の大命が下り、日本軍は正式に撤退準備を開始した。 日本陸軍はの(司令官陸軍中将) とガダルカナル島現地の(司令官陸軍中将)、日本海軍は連合艦隊司令長官の総指揮下で 、南東方面部隊(指揮官南東方面艦隊司令長官、外南洋部隊指揮官第八艦隊司令長官)および隷下の外南洋部隊増援部隊(第三水雷戦隊司令官海軍少将、第十戦隊司令官海軍少将)が作戦を担当した。 各方面(大本営陸海軍、現地陸海軍部隊)とも悲観的見通しをもってケ号作戦を発動した。 作戦は、基地航空隊による航空撃滅戦を実施して制空権を確保したあと(この航空作戦でが生起) 、によって撤収作戦がおこなわれた。 撤退は3回次に分けて行われ、沈没艦は1隻、損傷は駆逐艦3隻のみで、日本軍のは成功した。 撤退中に発生したについては イサベル島沖と呼称されることが多い。 撤退により救出された日本軍は1万2千名余りだった。 背景 (17年)以降のにおいて、日本軍は9月と10月に2度の総攻撃を行ったものの、が死守するの奪回に失敗した(など)。 日本軍によるガ島へのやのは、の沈没() やの大量消耗により継続できなくなった。 連合軍の上陸から約4ヶ月が経過した12月上旬、大本営はガダルカナル島の奪還が不可能であることを認めざるを得なくなり、大本営陸軍部(参謀本部)では人事異動がおこなわれ陸軍少将(27期)が陸軍部第一部長に、第二課長には大佐(31期)が補任された。 最前線を視察した真田課長はガ島撤収とニューギニア確保を中央部に訴え、参謀総長陸軍大将(12期)、参謀次長陸軍中将(22期)、綾部第一部長の同意を得た。 大本営陸軍部(参謀本部)と大本営海軍部(軍令部)は懇談を行い、12月28日に第八方面軍(司令官陸軍中将〈19期〉、参謀長加藤錀平陸軍中将〈25期〉)へ「(参謀総長指示、参電第359号)第十七軍司令官ヲシテ「ガダルカナル」島ニ於ケル現戦線ヲ整理シ後方ノ要線ヲ占領シテ爾後ノ作戦ヲ準備セシムヘシ」と指示した。 、が臨席する異例ので、日本軍はガダルカナル島からの撤退と東北部ニューギニアへの作戦重点変換を決定した。 天皇は「ただガ島を止めただけではいかぬ。 何処かで攻勢に出なければならない」との意思を伝え、日本軍はニューギニア東部に重点を置くことにしたのである。 また侍従武官を通じて「ガ島撤退は遺憾であるがガ島作戦まで今日まで随分苦戦奮闘したので、直後をやろうと思っている」と意志を伝え、連合艦隊司令長官と第八方面軍司令官に対する勅語発令に至った。 撤退は翌(昭和18年)1月下旬から2月上旬に行われることとなった。 これを隠すため航空攻撃や物資輸送は続けられた。 そのため、アメリカ軍は日本軍の撤退作戦完了後もその事実を知らず、逆に日本軍がガダルカナル島の兵力を増強するための新たなと考えていた。 大本営では、まず大本営陸軍部第一部長陸軍少将が1月2日に横須賀を出発、翌日にトラック泊地の戦艦で連合艦隊司令部と作戦連絡を行った。 南東方面艦隊参謀長海軍少将と第八艦隊参謀長海軍少将もラバウルから招致されており、大本営海軍部第一部長海軍中将を交えて作戦連絡が行われた。 翌4日、綾部少将はに到着して同地の第八方面軍と会議をおこなった。 第八方面軍は作戦の見通しに悲観的であった。 撤退に際しての各方面の意見と企画は、以下のようなものであった。 ガダルカナル島現地の第十七軍は極めて悲観的であった。 第十七軍司令官陸軍中将は後述の大命をうけて「ケ号作戦実施は難事中の難事であるが、大命による方面軍命令はあくまで実施せねばならぬ」と決心した。 第十七軍参謀長陸軍少将(28期)や参謀小沼治夫大佐は1月15日の作戦命令伝達に際し「(ケ号作戦実施は不可能なので)軍としてこの際ここで斬り死させることが軍を生かす道であり、皇軍の本義に徹する所以である」と述べた。 連合艦隊(司令長官海軍大将、参謀長海軍中将)としては、第十七軍の一部をもってガ島の一角を固守してもらいたい。 大本営陸軍部としては輸送船20隻の投入を検討したが全滅の公算大、海軍の駆逐艦をなるべく多く出してもらう。 ガダルカナル島西方にあるをし、これを中継基地として使用する。 当初案では、舟艇機動でガ島からラッセル諸島まで移動、そこから駆逐艦で一挙に引き上げる。 航空撃滅戦をおこなったあと、駆逐艦輸送とを併用し、ガ島~ラッセル諸島~ニュージョージア諸島と逐次撤退する。 ガ島将兵2万名のうち、大本営判断では5000~6000名は撤退可能であろう。 第八方面軍の見通しは「うまく行って1万5000名中、5000名」。 山本長官によれば「三分の一位は撤収可能であるという中央の判断は甘すぎる」。 同時にの為に陸軍は陽動隊を上陸させること。 残存兵は等により撤退させること。 こうした一連の動きにより、アメリカ軍に対し 再び日本軍によるガ島総攻撃があると思わせるのが 日本軍の意図であった。 1月4日、大本営陸軍部と大本営海軍部間で「南太平洋方面作戦陸海軍中央協定」と「 「ケ」号作戦ニ関スル陸海軍中央協定」がむすばれる(大陸命第732号・大陸命第733号・大海令第23号・大海指第184号等)。 ソロモン群島作戦は「カ号作戦」、ガ島撤収作戦は「ケ号作戦」、ニューギニヤ作戦は「ト号作戦」、ポートモレスビー作戦は「レ号作戦」であった。 昭和天皇は作戦協定を綿密詳細に検討し、本作戦に重大なる関心を抱いていたという。 1月15日、昭和天皇臨席のもと御前会議会議が開かれ、大本営陸海軍部はケ号作戦の作戦計画を上奏した。 1 「ガ」島に対し主として海軍艦艇に依り一月上旬の間概ね完全定量一箇月分の糧食を輸送し「ガ」島部隊の戦力向上を図る。 2 在「ガ」島部隊の戦力低下しあるに鑑み1月14日歩兵約一大隊を海軍艦艇により「ガ」島に派遣し戦力を増強して撤収作戦を準備せしめる。 3 第十七軍は為し得る限り速に戦闘に堪へぬ者を「ガ」島西端附近に集結せしむると共に所要の収容陣地竝に「ガ」島西端附近に後衛陣地()を占領し撤収作戦を準備する。 4 「ソロモン」群島方面航空基地の準備完成に伴い1月下旬陸海軍航空部隊の主力を奇襲的に「ソロモン」方面に展開し「ガ」島方面の敵航空勢力に対し撃滅戦を開始し(概ね1月28日頃を予定)所要の期間其の成果を持続するに努める。 5 航空撃滅戦開始後成るべくすみやかに「ラッセル」島を占領し撤収部隊の収容を準備する。 6 第十七軍は1月25日・26日頃より第一線の行動を開始し「ガ」島西端附近に態勢を収縮する。 7 「ラッセル」島占領後情況に依りすみやかに更に歩兵約一大隊の新鋭部隊を「ガ」島に上陸せしめ主として後衛陣地の確保に任ぜしむ。 8 二月初頭以後3・4日毎に三次に亙り駆逐艦を主体として撤収輸送を行い第一次主として戦闘に堪へざる者、第二次主として・の主力、第三次後衛を基幹とする部隊を撤収する。 9 右(駆逐艦撤収)と同時に一部は大発動艇により「ラッセル」島に撤収し爾後駆逐艦に依り「ショートランド」に収容する。 10 以上作戦の終末を2月10日頃と予定する。 「右撤収作戦ハ極メテ困難テアリマシテ予想セサル情況ノ展開モ予期セラレマスノテ 陸海軍愈々協同ヲ緊密ニシ周到ナル作戦準備ヲ行ヒ 全力ヲ集中致シマシテ作戦ノ万全ヲ期シテ居リマス」。 草鹿任一海軍中将は、司令長官と司令長官を兼務。 南東方面部隊指揮官として、南東方面艦隊と第八艦隊を隷下に置く。 司令長官三川軍一海軍中将は、軍隊区分においては外南洋部隊指揮官で、南東方面部隊の隷下で行動する。 1943年1月4日 勅語 「ソロモン」群島竝東部「ニューギニヤ」方面ニ作戦セル陸海軍部隊ハ長期ニ亙リ緊密ナル協同ノ下ニ連続至難ナル作戦ヲ敢行シ有ユル艱苦ヲ克服シ激戦奮闘屡々敵ニ打撃ヲ加ヘ克ク其ノ任ニ膺レリ 朕深ク之ヲ嘉尚ス 惟フニ同方面ノ戦局ハ益々多端ヲ加フ汝等愈々奮励努力陸海協戮ヲ以テ朕カ信倚ニソハムコトヲ期セヨ。 『戦史叢書66、大本営陸軍部』による2月15日報告では、海軍兵749名とする。 第一次撤収作戦に参加した駆逐艦。 により損傷、自沈処分。 第一次撤収作戦で駆逐艦大破。 第二次撤収作戦で駆逐艦中破。 第三次撤収作戦で駆逐艦中破。 , pp. 30b-37大本營の新作戦に関する命令、指示• 41aガ島撤収作戦の見通し• 60-61「ケ」号作戦成功の要因• , p. 41b航空撃滅戦の成否について• , pp. 128-130「ケ」号作戦• , p. 58-59ガ島撤収作戦の実施• , pp. 123-125第三次ソロモン海戦の波紋• , pp. 126-127難しくなった鼠輸送• , pp. 18-19南東方面• , pp. 25a-26南東方面作戦方針の転換• , p. 25b. 26a. , p. 40新作戦方針に対する若干の問題点• , pp. 36-37. 129-130. , p. 26b-29綾部第一部長の第八方面軍との作戦連絡• , pp. 29-30福留海軍第一部長の聯合艦隊との作戦連絡• , p. 41c. 30a. , p. 22-37. , p. , p. , pp. 37-39陸海軍作戦部長の連絡事項の上奏• 38-39. 57-58ソロモン方面航空撃滅戦と海上作戦• , p. 561. 142頁「イサベル島沖海戰」• 126. , p. 145. 676-678頁• 247-248頁• 330頁、248-249頁• 678頁• , pp. 61-62ブナおよびガ島撤収作戦に関する中央部の発表• , p. 570. 143頁「イサベル島沖海戰」• , pp. 49-50東部ニューギニア作戦準備の促進• , pp. 76-85ニューギニア方面の作戦師団• , pp. 247-248八十一号作戦計画とダンピールの悲劇• , pp. 130-131ニューギニア輸送にも危機• , pp. 42-43ソロモン群島の防衛線• , pp. 74-76ソロモン方面の防衛問題.

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