父母 が 頭 かき 撫で 幸 く あれ てい ひし 言葉 ぜ 忘れ かね つる。 訓読万葉集 20

「父母,防人の歌」に関するQ&A

父母 が 頭 かき 撫で 幸 く あれ てい ひし 言葉 ぜ 忘れ かね つる

天平勝宝五年 八月 はつき の 十二日 とをかまりふつかのひ 、 二三 ふたりみたり の 大夫等 まへつきみたち 、 各 おのもおのも 壺酒 さかつぼ を 提 ひきさ げて、 高圓野 たかまとぬ に登り、聊か 所心 おもひ を述べて 作 よ める歌 三首 みつ 4295 高圓の 尾花 をばな 吹きこす秋風に紐ときあけな 直 ただ ならずとも 右の 一首 ひとうた は、 左京少進 ひだりのみさとつかさのすなきまつりごとひと。 4296 天雲に雁そ鳴くなる高圓の萩の下葉はもみち 堪 あ へむかも 右の一首は、 左中弁 ひだりのなかのおほともひ。 4297 をみなへし秋萩しぬぎさ牡鹿の露分け鳴かむ高圓の野そ 右の一首は、少納言大伴宿禰家持。 六年 むとせといふとし 正月 むつき の 四日 よかのひ 、 氏族人等 やからどち 、少納言大伴宿禰家持が 宅 いへ に 賀集 つど ひて、 宴飲 うたげ する歌三首 4298 霜の 上 へ に 霰 あられ 飛走 たばし りいや益しに 吾 あれ は 参 まゐ 来む年の緒長く 古今未詳 右の一首は、 左兵衛督 ひだりのつはもののとねりのかみ 大伴宿禰 千室 ちむろ。 4299 年月は新た新たに相見れど 吾 あ が 思 も ふ君は飽き足らぬかも 古今未詳 右の一首は、 民部少丞 たみのつかさのすなきまつりごとひと 大伴宿禰村上。 4300 霞立つ春の初めを今日のごと見むと思へば楽しとそ 思 も ふ 右の一首は、左京少進大伴宿禰池主。 七日 なぬかのひ 、 天皇 すめらみこと 、 太上天皇 おほきすめらみこと 、 皇太后 おほみおや 、 東 ひむかし の 常宮 みや の南の大殿に 在 いま して、 肆宴 とよのあかり きこしめす歌一首 4301 印南野 いなみぬ の赤ら柏は時はあれど君を 吾 あ が 思 も ふ時はさねなし 右の一首は、 播磨 はりま の国の 守 かみ 安宿王 あすかべのおほきみ 奏 まを したまへり。 古今未詳。 三月 やよひ の 十九日 とをかまりここのかのひ 、家持が 庄 なりところ の門の 槻 つき の樹の 下 もと にて 宴飲 うたげ する歌二首 4302 山吹は撫でつつ生ほさむありつつも君来ましつつ 挿頭 かざ したりけり 右の一首は、 置始連長谷 おきそめのむらじはつせ。 4303 我が背子が屋戸の山吹咲きてあらば止まず通はむいや年の端に 右の一首は、長谷花を攀ぢ、壺を 提 ひきさ げて 到来 きた れり。 因是 かれ 大伴宿禰家持、此の歌をよみて 和 こた ふ。 同 おや じ月の 二十五日 はつかまりいつかのひ 、、 山田御母 やまだのみおも の宅に宴したまへる歌一首 4304 山吹の花の盛りにかくのごと君を見まくは 千年 ちとせ にもがも 右の一首は、少納言大伴宿禰家持、時の花を 囑 み てよめる。 但し未だ 出 いだ さざりし 間 ほど 、 大臣 おほまへつきみ 宴を 罷 や めたまへるによりて、詠み挙げせざりき。 霍公鳥 ほととぎす を 詠 よ める歌一首 4305 木 こ の 暗 くれ のしげき 峯 を の 上 へ をほととぎす鳴きて越ゆなり今し来らしも 右の一首は、 四月 うつき 、大伴宿禰家持がよめる。 七夕 なぬかのよひ の歌 八首 やつ 4306 初秋風すずしき夕へ解かむとそ紐は結びし妹に逢はむため 4307 秋と言へば心そ痛きうたて 異 け に花になそへて見まく欲りかも 4308 初 尾花 をばな 花に見むとし天の川へなりにけらし年の緒長く 4309 秋風になびく川 廻 び の 和草 にこぐさ のにこよかにしも思ほゆるかも 4310 秋されば霧たちわたる天の川石 並 な み置かば継ぎて見むかも 4311 秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ 4312 秋草に置く白露の飽かずのみ相見るものを月をし待たむ 4313 青波に 袖 そて さへ濡れて榜ぐ舟のかし振るほとにさ夜更けなむか 右、、大伴宿禰家持、独り 天漢 あまのがは を 仰 み てよめる。 4314 八千種 やちくさ に草木を植ゑて時ごとに咲かむ花をし見つつ 偲 しぬ はな 右の一首は、同じ月の 二十八日 はつかまりやかのひ 、大伴宿禰家持がよめる。 4315 宮人の袖付け衣秋萩ににほひよろしき 高圓 たかまと の宮 4316 高圓の宮の 裾廻 すそみ の野つかさに今咲けるらむ 女郎花 をみなへし はも 4317 秋野には今こそ行かめもののふの 男女 をとこをみな の花にほひ見に 4318 秋の野に露負へる萩を手折らずてあたら盛りを過ぐしてむとか 4319 高圓の秋野の上の朝霧に妻呼ぶ 壮鹿 をしか 出で立つらむか 4320 ますらをのさ牡鹿の 胸 むな 分けゆかむ秋野萩原 右の歌 六首 むつ は、 兵部少輔 つはもののつかさのすなきすけ 大伴宿禰家持、独り秋の野を 憶 しぬ ひて、聊か 拙懐 おもひ を述べてよめる。 天平勝宝 七歳 ななとせといふとし 乙未 きのとひつじ 二月 きさらき 、相替へて筑紫の 諸国 くにぐに に遣はさるる 防人 さきもり 等が歌 4321 畏きや 命 みこと 被 かがふ り明日ゆりや 妹 いむ 無しにして 右の一首は、 国造 くにのみやつこ の 丁 よほろ 、 長下郡 ながのしものこほり 、 物部秋持 もののべのあきもち。 4322 我が妻はいたく恋ひらし飲む水に 影 かご 副 さ へ見えて世に忘られず 右の一首は、 主帳 ふみひと の丁、 麁玉郡 あらたまのこほり 、 若倭部身麿 わかやまとべのむまろ。 4323 時々の花は咲けども何すれそ母とふ花の咲き 出来 でこ ずけむ 右の一首は、防人、 山名郡 やまなのこほり 、 丈部 はせつかべの 眞麿 ままろ。 4324 遠江 とへたほみ 白羽 しるは の磯と 贄 にへ の浦と合ひてしあらば言も 通 かゆ はむ 右の一首は、同じ郡の丈部 川相 かはひ。 4325 父母も花にもがもや草枕旅は行くとも捧ごてゆかむ 右の一首は、 佐野 さやの 郡 こほり 、丈部黒當。 4326 父母が殿の 後 しりへ の 百代草 ももよぐさ 百代いでませ我が来たるまで 右の一首は、同じ郡 生玉部 いくたまべの 足國 たりくに。 4327 我が妻も絵に描き取らむ 暇 いつま もか旅ゆく 吾 あれ は見つつ偲はむ 右の一首は、長下郡、物部 古麿 ふるまろ。 二月 きさらき の 六日 むかのひ 、防人 部領使 ことりつかひ 遠江 とほつあふみ の国の 史生 ふみひと 坂本朝臣 人上 ひとかみ が、 進 たてまつ れる歌の数 十八首 とをまりやつ。 但し 拙劣 つたな き歌 十一首 とをまりひとうた 有るは 取載 あ げず。 4328 大王の命かしこみ磯に触り 海原 うのはら 渡る父母を置きて 右の一首は、 助丁 すけのよほろ 、丈部 造 みやつこ 人麿。 4329 八十 やそ 国は難波に集ひ 船 ふな 飾り 吾 あ がせむ日ろを見も人もがも 右の一首は、 足下郡 あしからのしものこほりの 上丁 かみつよほろ 、 丹比部 たぢひべの 國人 くにひと。 4330 難波津に装ひ装ひて今日の日や出でて 罷 まか らむ見る母なしに 右の一首は、 鎌倉郡 かまくらのこほり の上丁、 丸子連 まるこのむらじ 多麿 おほまろ。 二月の七日、 相模 さがむ の国の防人部領使、 守 かみ 従五位 ひろきいつつのくらゐの 下 しもつしな が進れる歌の数八首。 但し 拙劣 つたな き歌 五首 いつつ は、 取載 あ げず。 防人の 悲別 わかれ の心を 追痛 いた みてよめる歌一首、また 短歌 みじかうた 4331 天皇 すめろき の 遠の 朝廷 みかど と しらぬひ 筑紫の国は 賊 あた まもる 鎮 おさ への 城 き そと 聞こし 食 を す 四方の国には 人 多 さは に 満ちてはあれど 鶏 とり が鳴く 東男 あづまをのこ は 出で向かひ かへり見せずて 勇みたる 猛 たけ き 軍卒 いくさ と 労 ね ぎたまひ 任 まけ のまにまに たらちねの 母が目 離 か れて 若草の 妻をも 枕 ま かず あらたまの 月日 数 よ みつつ 葦が散る 難波の御津に 大船に 真櫂しじぬき 朝凪に 水手 かこ ととのへ 夕潮に 楫引き 撓 を り 率 あど もひて 漕ぎゆく君は 波の間を い行きさぐくみ 真幸 まさき くも 早く到りて 大王 おほきみ の 命 みこと のまにま 大夫 ますらを の 心をもちて ありめぐり 事し終はらば 恙 つつ まはず 還り来ませと 斎瓮 いはひへ を 床辺 とこへ に据ゑて 白妙の 袖折りかへし ぬば玉の 黒髪しきて 長き 日 け を 待ちかも恋ひむ 愛 は しき妻らは 反 かへ し歌 4332 大夫の 靫 ゆき 取り負ひて出でて 行 い けば別れを惜しみ嘆きけむ妻 4333 鶏が鳴く 東男 あづまをとこ の妻別れ悲しくありけむ年の緒長み 右、二月の八日、兵部少輔大伴宿禰家持。 4334 海原 うなはら を遠く渡りて年 経 ふ とも子らが結べる紐解くなゆめ 4335 今替る 新 にひ 防人が船出する海原の上に波な 開 さ きそね 4336 防人の堀江榜ぎ 出 づ る伊豆手船楫取る間なく恋は繁けむ 右のは、九日、大伴宿禰家持がよめる。 4337 水鳥 みづとり の立ちの急ぎに父母に物 言 は ず 来 け にて今ぞ悔しき 右の一首は、 上丁 かみつよほろ 、 有度部 うとべの 牛麿。 4338 畳薦 たたみけめ 牟良自 むらじ が磯の 離磯 はなりそ の母を離れて行くが悲しさ 右の一首は、 助丁 すけのよほろ 、 生部 いくべの 道麿。 4339 国めぐる 当 あとり か 任 ま けり行き巡り 還 かひ り来までに 斎 いは ひて待たね 右の一首は、 刑部 おさかべの 虫麿。 4340 父母え斎ひて待たね筑紫なる 水漬 みづ く白玉取りて来までに 右の一首は、川原虫麿。 4341 橘の 美衣利 みえり の里に父を置きて道の 長道 ながち は行きかてぬかも 右の一首は、丈部 足麿 たりまろ。 4342 真木柱 まけばしら 讃めて造れる殿のごといませ母 刀自 とじ 面 おめ 変はりせず 右の一首は、 坂田部 さかたべの 首麿 おびとまろ。 4343 我 わ ろ旅は旅と 思 おめ ほど 顔持 こめち 痩すらむ我が身悲しも 右の一首は、 玉作部 たまつくりべの 廣目 ひろめ。 4344 忘らむと野ゆき山ゆき我来れど我が父母は忘れせぬかも 右の一首は、 商長 あきをさの 首麿 おびとまろ。 4345 我妹子 わぎめこ と二人我が見し打ち 寄 え する駿河の 嶺 ね らは 恋 くふ しくめあるか 右の一首は、 春日部 かすかべの 麿。 4346 父母が 頭 かしら 掻き撫で 幸 さき くあれて忘れかねつる 右の一首は、丈部 稲麿 いなまろ。 二月の七日、駿河の国の防人部領使、守従五位下 布勢 ふせの 朝臣 人主 ひとぬし 、 実 まこと 進 たてまつ るは九日。 歌の数 二十首 はたち。 但し 拙劣 つたな き歌は、 取載 あ げず。 4347 家にして恋ひつつあらずは 汝 な が 佩 は ける 大刀 たち になりても 斎 いは ひてしかも 右の一首は、国造の 丁 よほろ 、 日下部 くさかべの 使主 おみ 三中 みなか が父の歌。 4348 たらちねの母を別れてまこと我旅の 仮廬 かりほ に安く寝むかも 右の一首は、国造の丁、日下部使主三中。 4349 百隈 ももくま の道は来にしを又更に 八十 やそ 島過ぎて別れか行かむ 右の一首は、 助丁 すけのよほろ 刑部 おさかべの 直 あたへ 三野 みぬ。 4350 庭中の 阿須波 あすは の神に小柴さし 吾 あれ は斎はむ還り来までに 右の一首は、 主帳 ふみひと の 丁 よほろ 、 若麻續部 わかをみべの 諸人 もろひと。 4351 旅衣八つ着重ねて 寝 いぬ れどもなほ肌寒し妹にしあらねば 右の一首は、 望陀郡 うまぐたのこほり の 上丁 かみつよほろ 、玉作部 國忍 くにおし。 4352 道の 辺 べ の 茨 うまら の 末 うれ に 延 は ほ豆のからまる君を 離 はか れか行かむ 右の一首は、 天羽郡 あまはのこほり の上丁、丈部鳥。 4353 家風は日に日に吹けど我妹子が 家言 いへごと 持ちて来る人も無し 右の一首は、 朝夷郡 あさひなのこほり の上丁、丸子連 大歳 おほとし。 4354 立ち 鴨 こも の立ちの騒きに相見てし妹が心は忘れせぬかも 右の一首は、 長狭郡 ながさのこほり の上丁、丈部 與呂麿 よろまろ。 4355 よそにのみ見てや渡らも難波潟雲居に見ゆる島ならなくに 右の一首は、 武射郡 むざのこほり の上丁、丈部 山代 やましろ。 4356 我が母の 袖 そて 持ち撫でて我が 故 から に泣きし心を忘らえぬかも 右の一首は、 山邊郡 やまのべのこほり の上丁、物部 乎刀良 をとら。 4357 葦垣の 隈所 くまと に立ちて我妹子が 袖 そて もしほほに泣きしそ 思 も はゆ 右の一首は、市原郡の上丁、刑部直 千國 ちくに。 4358 大王の命かしこみ出で来れば 我 わ ぬ取り付きて言ひし子なはも 右の一首は、 種淮郡 すゑのこほり の上丁、物部 龍 たつ。 4359 筑紫 方 へ に 舳 へ 向かる船のいつしかも仕へまつりて国に 舳向 へむ かも 右の一首は、 長柄郡 ながらのこほり の上丁、若麻續部 羊 ひつじ。 二月の九日、 上総 かみつふさ の国の防人部領使、 少目 すなきふみひと 従七位下 ひろきななつのくらゐのしもつしな 茨田 まむたの 連 むらじ 沙彌麿 さみまろ が進る歌の数 十九首 とをまりここのつ。 但し 拙劣 つたな き歌は、 取載 あ げず。 私拙懐 おもひ を 陳 の ぶる一首、また短歌 4360 天皇 すめろき の 遠き御代にも 押し照る 難波の国に 天の下 知らしめしきと 今の緒に 絶えず言ひつつ かけまくも あやに畏し 神 かむ ながら 我ご大王の 打ち靡く 春の初めは 八千種に 花咲きにほひ 山見れば 見の 羨 とも しく 川見れば 見のさやけく ものごとに 栄ゆる時と 見 め し賜ひ 明らめ賜ひ 敷きませる 難波の宮は 聞こし 食 を す 四方の国より 奉る 御調 みつき の船は 堀江より 水脈 みを 引きしつつ 朝凪に 楫引き 泝 のぼ り 夕潮に 棹さし下り あぢ群の 騒き 競 きほ ひて 浜に出でて 海原見れば 白波の 八重折るが上に 海人 小船 をぶね はららに浮きて 大御食 おほみけ に 仕へまつると をちこちに 漁 いざ り釣りけり そきだくも おぎろなきかも こきばくも ゆたけきかも ここ見れば うべし神代ゆ 始めけらしも 反し歌 4361 桜花今盛りなり難波の海押し照る宮に聞こしめすなべ 4362 海原のゆたけき見つつ葦が散る難波に年は経ぬべく思ほゆ 右、二月の十三日、兵部少輔大伴宿禰家持。 4363 難波津に御船下ろ据ゑ 八十楫 やそか 貫 ぬ き今は榜ぎぬと妹に告げこそ 4364 防人 さきむり に立たむ騒きに家の妹が 業 な るべきことを言はず 来 き ぬかも 右の二首は、 茨城郡 うばらきのこほり 、 若舎人部 わかとねりべの 廣足 ひろたり。 4365 押し照るや難波の津より 船装 ふなよそ ひ 吾 あれ は榜ぎぬと妹に告ぎこそ 4366 常陸 ひたち 指し行かむ雁もが 吾 あ が恋を記して付けて妹に知らせむ 右の二首は、 信太郡 しだのこほり 、物部 道足 みちたり。 4367 吾 あ が 面 もて の忘れもしだは 筑波嶺 つくはね を振り放け見つつ妹は 偲 しぬ はね 右の一首は、茨城郡、 占部 うらべの 小龍 をたつ。 4368 久慈川は 幸 さけ くあり待て潮船に真楫しじ 貫 ぬ き 我 わ は還り来む 右の一首は、久慈郡、 丸子部 まろこべの 佐壯 すけを。 4369 筑波嶺の 早百合 さゆる の花の 夜床 ゆとこ にも 愛 かな しけ妹そ昼も愛しけ 4370 霰降り鹿島の神を祈りつつ 皇御軍 すめらみいくさ に我は来にしを 右の二首は、 那賀郡 なかのこほり の 上丁 かみつよほろ 、 大舎人部 おほとねりべの 千文 ちふみ。 4371 橘の下吹く風のかぐはしき 筑波 つくは の山を恋ひずあらめかも 右の一首は、 助丁 すけのよほろ 、占部 廣方 ひろかた。 4372 足柄 あしがら の 御坂た 廻 まは り 顧みず 吾 あれ は 越 く え行く 荒し 男 を も 立しや憚る 不破の関 越 く えて 我 わ は行く 馬 むま の爪 筑紫の崎に 留 ち まり居て 吾 あれ は 斎 いは はむ 諸々は 幸 さけ くと申す 還り来まてに 右の一首は、 倭文部 しつりべの 可良麿 からまろ。 二月の十四日、常陸の国の 部領防人使 ことりさきもりつかひ 、 大目 おほきふみひと 正七位上 おほきななつのくらゐのかみつしな 息長 おきながの 真人 まひと 國島 くにしま が進れる歌の数十七首。 但し 拙劣 つたな き歌は、 取載 あ げず。 4373 今日よりは顧みなくて 大王 おほきみ の 醜 しこ の 御楯 みたて と出で立つ我は 右の一首は、火長、 今奉部 いままつりべの 與曽布 よそふ。 4374 天地 あめつち の神を祈りて 幸矢 さつや 貫 ぬ き筑紫の島を指して 行 い く我は 右の一首は、火長、大田部 荒耳 あらみみ。 4375 松の 木 け の 並 な みたる見れば 家人 いはびと の我を見送ると立たりし 如 もころ 右の一首は、火長、物部 眞島 ましま。 4376 旅ゆきに行くと知らずて 母父 あもしし に言申さずて今ぞ悔しけ 右の一首は、寒川郡の上丁、川上 巨老 おほおゆ。 4377 母刀自 あもとじ も玉にもがもや戴きて 角髪 みづら の中に合へ巻かまくも 右の一首は、 津守 つもり 宿禰 小黒栖 をくるす。 4378 月日 つくひ やは過ぐは行けども 母父 あもしし が玉の姿は忘れせなふも 右の一首は、 都賀郡 つがのこほり の上丁、中臣部 足國 たりくに。 4379 白波の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ 八度 やたび 袖 そて 振る 右の一首は、足利郡の上丁、大舎人部 禰麿 ねまろ。 4380 難波門 なにはと を榜ぎ出て見れば 神 かみ さぶる生駒高嶺に雲そたなびく 右の一首は、 梁田郡 やなたのこほり の上丁、大田部 三成 みなり。 4381 国々の防人集ひ船乗りて別るを見ればいともすべなし 右の一首は、河内郡の上丁、 神麻續部 かむをみべの 島麿。 4382 太小腹 ふたほがみ 悪しけ人なり 疝病 あたゆまひ 我がする時に防人に差す 右の一首は、那須郡の上丁、大伴部廣成。 4383 津の国の海の渚に船装ひ 発 た し出も時に 母 あも が目もがも 右の一首は、塩屋郡の上丁、丈部 足人 たりひと。 二月の十四日、 下野 しもつけぬ の国の防人部領使、 正六位 おほきむつのくらゐの 上 かみつしな 田口朝臣 大戸 おほと が進れる歌の数十八首。 但し 拙劣 つたな き歌は、 取載 あ げず。 4384 暁 あかとき のかはたれ時に島 陰 かぎ を榜ぎにし船のたづき知らずも 右の一首は、 助丁 すけのよほろ 海上郡 うなかみのこほり 海上の国造、 日奉直 ひまつりのあたへ 得大理 とこたり。 4385 行 ゆ こ先に波な 音 と 動 ゑら ひ 後方 しるへ には子をと妻をと置きてとも来ぬ 右の一首は、 葛餝郡 かづしかのこほり 私部 きさきべの 石島 いそしま。 4386 我が 門 かづ の 五本 いつもと 柳いつもいつも 母 おも が恋すな 右の一首は、結城郡、 矢作部 やはきべの 眞長 まなが。 4387 千葉 ちは の野の 児手柏 このてかしは の 含 ほほ まれどあやに 愛 かな しみ 右の一首は、 千葉郡 ちはのこほり 、大田部足人。 4388 旅とへど真旅になりぬ家の 妹 も が着せし衣に垢付きにかり 右の一首は、 占部 うらべの 虫麿。 4389 潮舟の 舳 へ 越そ白波 急 には しくも負ふせ 賜 たま ほか思はへなくに 右の一首は、 印波郡 いにはのこほり 、 丈部直 はせつかべのあたへ 大歳 おほとし。 4390 群玉 むらたま の 枢 くる に釘刺し堅めとし妹が心は 危 あよ くなめかも 右の一首は、、 刑部 おさかべの 志加麿 しかまろ。 4391 国々の 社 やしろ の神に 幣 ぬさ 奉 まつ り 贖 あが 乞ひすなむ妹が 愛 かな しさ 右の一首は、結城郡、 忍海部 おしぬみべの 五百麿 いほまろ。 4392 天地 あめつし のいづれの神を祈らばか 愛 うつく し母にまた言問はむ 右の一首は、 埴生郡 はにふのこほり 、大伴部 麻與佐 まよさ。 4393 大王の命にされば父母を 斎瓮 いはひへ と置きて 参 まゐ 出来にしを 右の一首は、結城郡、 雀部 きさきべの 廣島。 4394 大王の命かしこみ 夢 ゆみ のみにさ寝か渡らむ長けこの夜を 右の一首は、相馬郡、大伴部 子羊 こひつじ。 二月の十六日、下総の国の防人部領使、少目従七位下 縣犬養宿禰 あがたのいぬかひのすくね 浄人 きよひと が進れる歌の数 二十二首 はたちまりふたつ。 但し 拙劣 つたな き歌は、 取載 あ げず。 独り龍田山の桜の花を惜しめる歌一首 4395 龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに 独り 江水 え に 浮漂 うか べる 糞 こつみ を見て、貝玉の依らざるを 怨恨 うら みてよめる歌一首 4396 堀江より朝潮満ちに寄る 木糞 こつみ 貝にありせば 苞 つと にせましを 館 たち の 門 かど にて、江南 美女 をとめ を見てよめる歌一首 4397 見渡せば向つ 峯 を の 上 へ の花にほひ照りて立てるは 愛 は しき誰が妻 右の三首は、二月の 十七日 とをかまりなぬかのひ 、兵部少輔大伴家持がよめる。 防人の 情 こころ に為りて思を陳べてよめる歌一首、また短歌 4398 大王の 命かしこみ 妻別れ 悲しくはあれど 大夫の 心振り起し 取り 装 よそ ひ 門出をすれば たらちねの 母掻き撫で 若草の 妻は取りつき 平らけく 我は 斎 いは はむ 好去 まさき くて 早還り 来 こ と 真袖もち 涙を 拭 のご ひ むせびつつ 言問 ことどひ すれば 群鳥 むらとり の 出で立ちかてに とどこほり かへり見しつつ いや遠に 国を来離れ いや高に 山を越え過ぎ 葦が散る 難波に来居て 夕潮に 船を浮けすゑ 朝凪に 舳 へ 向け漕がむと さもらふと 我が 居 を る時に 春霞 島 廻 み に立ちて 鶴 たづ が音の 悲しく鳴けば はろばろに 家を思ひ出 負征矢 おひそや の そよと鳴るまで 嘆きつるかも 反し歌 4399 海原に霞たなびき 鶴 たづ が音の悲しき宵は 国方 くにへ し思ほゆ 4400 家思ふと 眠 い を寝ず居れば 鶴 たづ が鳴く葦辺も見えず春の霞に 右、十九日、兵部少輔大伴宿禰家持がよめる。 4401 唐衣 からころも 裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや 母 おも なしにして 右の一首は、国造、 小縣郡 ちひさがたのこほり 、 他田舎人 をさだのとねり 大島。 4402 ちはやぶる神の御坂に幣まつり斎ふ命は 母父 おもちち がため 右の一首は、主帳、 埴科郡 はにしなのこほり 、 神人部 かむとべの 子忍男 こおしを。 4403 大王の命かしこみ 青雲 あをくむ のとのびく山を越よて来ぬかむ 右の一首は、 小長谷部 をはつせべの 笠麿。 二月の 二十二日 はつかまりふつかのひ 、信濃の国の防人部領使、道にて病を得て来たらず。 進れる歌の数十二首。 但し 拙劣 つたな き歌は 取載 あ げず。 4404 難波道を行きて 来 く まてと我妹子が付けし紐が緒絶えにけるかも 右の一首は、 助丁 すけのよほろ 、 上毛野 かみつけぬの 牛甘 うしかひ。 4405 我が 妹子 いもこ が偲ひにせよと付けし紐糸になるとも 我 わ は解かじとよ 右の一首は、朝倉 益人 ますひと。 4406 我が 家 いは ろに 行 ゆ かも人もが草枕旅は苦しと告げやらまくも 右の一首は、大伴部 節麿 ふしまろ。 4407 ひな曇り 碓日 うすひ の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも 右の一首は、 他田部 をさだべの 子磐前 こいはさき。 二月の二十三日、 上野 かみつけぬ の国の防人部領使、大目 正六位下 おほきむつのくらゐのしもつしな 上毛野君駿河が進れる歌の数十二首。 但し 拙劣 つたな き歌は 取載 あ げず。 防人の 悲別 わかれ の 情 こころ を陳ぶる歌一首、また短歌 4408 大王の 任 まけ のまにまに 島守 さきもり に 我が発ち来れば ははそ葉の 母の命は 御裳 みも の裾 摘み上げ掻き撫で ちちの実の 父の命は 栲綱 たくづぬ の 白髭の上ゆ 涙垂り 嘆きのたばく 鹿子 かこ じもの ただ独りして 朝戸出の 愛 かな しき 吾 あ が子 あら玉の 年の緒長く 相見ずは 恋しくあるべし 今日だにも 言問 ことどひ せむと 惜しみつつ 悲しびいませ 若草の 妻も子どもも をちこちに さはに囲み居 春鳥の 声のさまよひ 白妙の 袖泣き濡らし たづさはり 別れかてにと 引き留め 慕ひしものを 天皇 おほきみ の 命かしこみ 玉ほこの 道に出で立ち 岡の崎 い 廻 たむ むるごとに 万 よろづ たび かへり見しつつ はろばろに 別れし来れば 思ふそら 安くもあらず 恋ふるそら 苦しきものを うつせみの 世の人なれば 玉きはる 命も知らず 海原の 恐 かしこ き道を 島伝ひ い榜ぎ渡りて あり巡り 我が来るまでに 平らけく 親はいまさね つつみなく 妻は待たせと 住吉 すみのえ の 吾 あ が 統神 すめかみ に 幣 ぬさ まつり 祈り 申 まう して 難波津に 船を浮け据ゑ 八十楫 やそか 貫 ぬ き 水手 かこ ととのへて 朝開き 我 わ は榜ぎ出ぬと 家に告げこそ 反し歌 4409 家人 いへびと の斎へにかあらむ平らけく船出はしぬと親に 申 まう さね 4410 み空行く雲も使と人は言へど 家苞 いへづと 遣らむたづき知らずも 4411 家苞に貝そ 拾 ひり へる浜波はいやしくしくに高く寄すれど 4412 島陰に我が船泊てて告げやらむ使を無みや恋ひつつ行かむ 二月の二十三日、兵部少輔大伴宿禰家持。 4413 枕太刀 まくらたち 腰に取り佩き 真憐 まかな しき 夫 せ ろが 罷 ま き来む月の知らなく 右の一首は、 上丁 かみつよほろ 、那珂郡、 檜前舎人 ひのくまのとねり 石前 いはさき が 妻 め 、大伴 眞足女 またりめ。 4414 大王の命かしこみ 愛 うつく しけ真子が手離れ島伝ひ行く 右の一首は、 助丁 すけのよほろ 、秩父郡、大伴部 小歳 をとし。 4415 白玉を手に取り 持 も して見るのすも家なる妹をまた見てもやも 右の一首は、 主帳 ふみひと 、 荏原郡 えはらのこほり 、物部 歳徳 としとこ。 4416 草枕旅ゆく 夫 せ なが 丸寝 まるね せば家なる我は紐解かず寝む 右の一首は、 妻 め 椋椅部 くらはしべの 刀自賣 とじめ。 4417 赤駒を山野に 放 はか し捕りかにて多摩の横山 徒歩 かし ゆか遣らむ 右の一首は、豊島郡の上丁、椋椅部 荒虫 あらむし が 妻 め 、 宇遲部 うぢべの 黒女 くろめ。 4418 我が門の片山椿まこと 汝 なれ 我が手触れなな土に落ちもかも 右の一首は、荏原郡の上丁、物部 廣足 ひろたり。 4419 家 いは ろには 葦火 あしふ 焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ 思 も はも 右の一首は、 橘樹郡 たちばなのこほり の上丁、物部 眞根 まね。 4420 草枕旅の丸寝の紐絶えば 吾 あ が手と付けろこれの 針 はる 持 も し 右の一首は、 妻 め 、椋椅部 弟女 おとめ。 4421 我が行きの息づくしかば足柄の峰 這 は ほ雲を見とと 偲 しぬ はね 右の一首は、 都筑郡 つつきのこほり の上丁、 服部 はとりべの 於由 おゆ。 4422 我が 夫 せ なを筑紫へ遣りて 愛 うつく しみ帯は解かなな 奇 あや にかも寝も 右の一首は、 妻 め 服部 呰女 あため。 4423 足柄の御坂に 立 た して袖振らば 家 いは なる妹はさやに見もかも 右の一首は、 埼玉郡 さきたまのこほり の上丁、藤原部 等母麿 ともまろ。 4424 色 深 ぶか く 夫 せ なが衣は染めましを御坂 廻 たば らばまさやかに見む 右の一首は、 妻 め 物部刀自賣。 二月の、 武藏 むざし の国の部領防人使、 掾 まつりごとひと 正六位上 安曇 あづみ 宿禰三國が進れる歌の数二十首。 但し 拙劣 つたな き歌は 取載 あ げず。 4425 防人にゆくは誰が 夫 せ と問ふ人を見るが 羨 とも しさ物 思 も ひもせず 4426 天地 あめつし の神に 幣 ぬさ 置き斎ひつついませ我が 夫 せ な 吾 あれ をし 思 も はば 4427 家 いは の妹ろ 我 わ を 偲 しの ふらし真 結 ゆす びに 結 ゆす びし紐の解くらく 思 も へば 4428 我が 夫 せ なを筑紫は遣りて 愛 うつく しみ 帯 えび は解かなな 奇 あや にかも寝む 4429 馬屋なる縄断つ駒の 後 おく るがへ妹が言ひしを置きて悲しも 4430 荒し 男 を のい 小箭 をさ 手挟 だはさ み向ひ立ちかなるましづみ出でてと 吾 あ が来る 4431 笹が葉のさやく霜夜に 七重 ななへ 着 か る衣に増せる子ろが肌はも 4432 障 さ へなへぬ 命 みこと にあれば 愛 かな し妹が手枕離れあやに悲しも 右の八首は、 昔年 さきつとし の防人の歌なり。 主典 ふみひと 刑部 うたへのつかさの 少録 すなきふみひと 正七位上 おほきななつのくらゐのかみつしな 磐余 いはれの 伊美吉 いみき 諸君 もろきみ が、 抄写 かきつけ て兵部少輔大伴宿禰家持に贈れり。 三月 やよひ の 三日 みかのひ 、防人を 検校 かむが ふる 勅使 みかどつかひ 、また 兵部 つはもののつかさ の 使人等 つかひども 、 同 とも に集ひて 飲宴 うたげ するときよめる歌三首 4433 朝な 朝 さ な上がる雲雀になりてしか都に行きて早還り来む 右の一首は、勅使、 紫微 しび の 大弼 おほきすけ 安倍 沙美麿 さみまろ の朝臣。 4434 雲雀あがる春へとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく 4435 含 ふふ めりし花の初めに 来 こ し我や散りなむ後に都へ行かむ 右の二首は、兵部少輔大伴宿禰家持。 昔年 さきつとし 相替はれる防人が歌一首 4436 闇の夜の行く先知らず行く我をいつ来まさむと問ひし子らはも 先の 太上天皇 おほきすめらみこと の霍公鳥を 御製 みよみ ませる 歌 おほみうた 一首 4437 霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな 吾 あ を 音 ね し泣くも 薩妙觀 さつめうくわむ が詔を 応 うけたま はりて和へ奉れる歌一首 4438 霍公鳥ここに近くを来鳴きてよ過ぎなむ後に 験 しるし あらめやも 冬の日、 靱負 ゆけひ の 御井 みゐ に 幸 いで ましし時、 諱曰邑婆 詔を 応 うけたま はりて雪を 賦 よ める歌一首 4439 松が枝の土に着くまで降る雪を見ずてや妹が籠り居るらむ その時、 水主内親王 みぬしのひめみこ 、寝膳安からず。 累日参りたまはず。 因 かれ 此の日太上天皇、 侍嬬 みやをみな 等に 勅 の りたまはく、水主内親王の為に、雪を賦みて 奉献 たてまつ れとのりたまへり。 是に 諸 もろもろ の 命婦 ひめとね 等、 作歌 うたよみ し 堪 か ねたれば、此の石川命婦、独り此の歌を 作 よ みて 奏 まを せりき。 右の件の 四首 ようた は、上総の国の 大掾 おほきまつりごとひと 正六位上 おほきむつのくらゐのかみつしな 伝へ 誦 よ めりき。 年月未詳。 上総の国の 朝集使 まゐうごなはるつかひ 大掾大原真人今城が 京 みやこ に向かへる時、 郡司 こほりのつかさ の 妻女等 めら が 餞 うまのはなむけ せる歌二首 4440 足柄の八重山越えていましなば誰をか君と見つつ偲はむ 4441 立ち 萎 しな ふ君が姿を忘れずば世の限りにや恋ひ渡りなむ 五月 さつき の 九日 ここのかのひ 、兵部少輔大伴宿禰家持が 宅 いへ にて 集飲 うたげ せる歌四首 4442 我が背子が屋戸の撫子日並べて雨は降れども色も変らず 右の一首は、大原真人今城。 4443 久かたの雨は降りしく撫子がいや初花に恋しき我が 兄 せ 右の一首は、大伴宿禰家持。 4444 我が背子が屋戸なる萩の花咲かむ秋の夕へは我を偲はせ 右の一首は、大原真人今城。 4445 鴬の声は過ぎぬと思へども 染 し みにし心なほ恋ひにけり 右の一首は、大伴宿禰家持。 同じ月の 十一日 とをかまりひとひのひ 、 左大臣 ひだりのおほまへつきみ 橘の 卿 まへつきみ の、 右大弁 みぎのおほきおほともひ 丹比國人真人が宅に宴したまふ歌三首 4446 我が屋戸に咲ける撫子 幣 まひ はせむゆめ花散るないやをちに咲け 右の一首は、丹比國人真人が左大臣を 寿 ことほ く歌。 4447 幣しつつ君が 生 お ほせる撫子が花のみ問はむ君ならなくに 右の一首は、左大臣の和へたまふ歌。 4448 あぢさゐの八重咲くごとく 弥 や つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ 右の一首は、左大臣の、 味狭藍 あぢさゐ の花に寄せて詠みたまへる。 十八日 とをかまりやかのひ 、左大臣の、 兵部卿 つはもののつかさのかみ が宅に宴したまふ歌一首 4449 撫子が花取り持ちてうつらうつら見まくの欲しき君にもあるかも 右の一首は、 治部卿 をさむるつかさのかみ。 4450 我が背子が屋戸の撫子散らめやもいや初花に咲きは増すとも 4451 愛 うるは しみ 吾 あ が 思 も ふ君は撫子が花になそへて見れど飽かぬかも 右の二首は、兵部少輔大伴宿禰家持が追ひてよめる。 八月 はつき の 十三日 とをかまりみかのひ 、内の南の 安殿 やすみとの にて、 肆宴 とよのあかり したまへるときの歌二首 4452 官女 をとめ らが 玉裳 たまも 裾曳くこの庭に秋風吹きて花は散りつつ 右の一首は、 内匠頭 うちのたくみのかみ 播磨守 はりまのかみ 兼 か けたる 正四位下 おほきよつのくらゐのしもつしな 安宿王 あすかべのおほきみ 奏 まを したまへり。 4453 秋風の吹き 扱 こ き敷ける花の庭清き 月夜 つくよ に見れど飽かぬかも 右の一首は、兵部少輔 従五位上 ひろきいつつのくらゐのかみつしな 大伴宿禰家持。 十一月 しもつき の 二十八日 はつかまりやかのひ 、左大臣、兵部卿橘奈良麿朝臣が宅に集ひて、宴したまふ歌三首 4454 高山の 巌 いはほ に生ふる 菅 すが の根のねもころごろに降り置く白雪 右の一首は、左大臣のよみたまへる。 天平 てむひやう 元年 はじめのとし 、 班田 たあがつ 時の使 葛城王 かづらきのおほきみ の、山背の国より、 薩妙觀 さつめうくわむ の 命婦 ひめとね 等が 所 もと に贈りたまへる歌一首 芹子 セリ ノ 髱 ツト ニ副ヘタリ 4455 あかねさす昼は田 賜 た びてぬば玉の夜のいとまに摘める芹これ 薩妙觀の命婦が 報贈 こた ふる歌一首 4456 大夫と思へるものを大刀佩きて 可尓波 かには の田居に芹そ摘みける 右の二首は、左大臣読みあげたまへり。 〔天平勝宝〕 八歳 やとせといふとし 丙申 ひのえさる 、二月の 朔 つきたち 乙酉 きのととり 二十四日 はつかまりよかのひ 戊申 つちのえさる 、、、〔太〕、 河内 かふち の 離宮 とつみや に 幸行 いでま して、、 壬子 みづのえね に難波の宮に 伝幸 うつりいでま し、、河内の国の 仗人 くれの 郷 さと の 馬史國人 うまのふひとくにひと が家にて、宴したまへるときの歌三首 4457 住吉の浜松が根の下 延 ば へて我が見る小野の草な刈りそね 右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持。 4458 にほ鳥の 息長川 おきながかは は絶えぬとも君に語らむ 言 こと 尽きめやも 右の一首は、 主人 あろじ 散位寮 とねのつかさ の 散位 とね 馬史國人。 4459 堀江榜ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに 右の一首は、 式部少丞 のりのつかさのすなきまつりごとひと 大伴宿禰池主読みあぐ。 即ち云へらく、 兵部大丞 つはもののつかさのおほきまつりごとひと 大原真人今城、先つ日 他所 あだしところ にて読みあげし歌なりといへり。 4460 堀江榜ぐ伊豆 製 て の船の楫つくめ音しば立ちぬ 水脈 みを 速みかも 4461 堀江より水脈さかのぼる楫の 音 と の間なくそ奈良ば恋しかりける 4462 舟競 ふなぎほ ふ堀江の川の 水際 みなきは に来居つつ鳴くは都鳥かも 右の三首は、 江 え の 辺 べ にてよめる。 4463 霍公鳥まづ鳴く 朝明 あさけ いかにせば我が門過ぎじ語り継ぐまで 4464 霍公鳥懸けつつ松陰に紐解き放くる月近づきぬ 右の二首は、二十日、大伴宿禰家持 興 こと に 依 つ けてよめる。 族 やがら を 喩 さと す歌一首、また短歌 4465 久かたの 天 あま の 門 と 開き 高千穂の 岳 たけ に 天降 あも りし 天孫 すめろき の 神の御代より 梔弓 はじゆみ を 手 た 握り持たし 真鹿児矢 まかこや を 手挟 たはさ み添へて 大久米の ますら 健男 たけを を 先に立て 靫 ゆき 取り負ほせ 山川を 岩根さくみて 踏み通り 国 覓 ま ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け まつろはぬ 人をも 和 やは し 掃き清め 仕へまつりて 蜻蛉島 あきづしま 大和の国の 橿原 かしばら の 畝傍 うねび の宮に 宮柱 太知り立てて 天 あめ の下 知らしめしける 天皇 すめろき の 天 あま の 日嗣 ひつぎ と 次第 つぎて 来る 君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇辺 すめらへ に 極め尽して 仕へくる 祖 おや の 職業 つかさ と 事立 ことた てて 授け賜へる 子孫 うみのこ の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り継ぎてて 聞く人の 鑑 かがみ にせむを 惜 あたら しき 清きその名そ 疎 おほ ろかに 心思ひて 虚言 むなこと も 遠祖 おや の名絶つな 大伴の 氏と名に負へる 健男 ますらを の伴 4466 磯城島 しきしま の大和の国に明らけき名に負ふ伴の 男 を 心つとめよ 4467 剣大刀 つるぎたち いよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名そ 右、 淡海真人三船 あふみのまひとみふね が 讒言 よこ せしに縁りて、出雲守 任 つかさ 解けぬ。 是以 かれ 家持此の歌をよめり。 臥病 や みて常無きを悲しみ、 修道 おこなひ せまくしてよめる歌二首 4468 現身 うつせみ は数なき身なり山川のさやけき見つつ道を尋ねな 4469 渡る日の影に 競 きほ ひて尋ねてな清きその道またも会はむため 寿 いのち を願ひてよめる歌一首 4470 水泡 みつぼ なす仮れる身そとは知れれどもなほし願ひつ 千年 ちとせ の命を 以前 かみ の 歌六首 むうた は、 六月 みなつき の 十七日 とをかまりなぬかのひ 、大伴宿禰家持がよめる。 冬十一月 しもつき の五日の夜、 少雷起鳴 かみなり 、 雪散覆庭 ゆきふれり。 忽懐感憐 かなしみて よめる 短歌 みじかうた 一首 4471 消 け 残りの雪にあへ照るあしひきの山橘を 苞 つと に摘み来な 右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持。 八日、 讃岐守 さぬきのかみ 安宿王 あすかべのおほきみ 等 たち 、 出雲掾 いずものまつりごとひと 安宿奈杼麿 あすかべのなどまろ が家に集ひて、宴したまふ歌二首 4472 大王の命かしこみ 於保 おほ の浦を 背向 そがひ に見つつ都へのぼる 右のは、掾安宿奈杼麿。 4473 うち日さす都の人に告げまくは見し日のごとくありと告げこそ 右の一首は、 守 かみ 山背王 やましろのおほきみ の歌なり。 主人 あろじ 安宿奈杼麿 あすかべのなどまろ 語りけらく、奈杼麿 朝集使 まゐうごなはるつかひ に差され、 京師 みやこ に 入 まゐ てむとす。 此に因りて 餞 うまのはなむけ する日、 各 おのもおのも 歌をよみて、聊か 所心 おもひ を 陳 の ぶ。 4474 群鳥 むらとり の朝立ち 去 い にし君が上はさやかに聞きつ思ひしごとく 右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持、 後日 のち に出雲守山背王の歌に追ひて和ふる 作 うた。 二十三日 はつかまりみかのひ 、 式部少丞 のりのつかさのすなきまつりごとひと 大伴宿禰池主が宅に集ひて、 飲宴 うたげ する歌二首 4475 初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我は見つつ偲はむ 4476 奥山の 樒 しきみ が花の名のごとやしくしく君に恋ひ渡りなむ 右の二首は、 兵部大丞 つはもののつかさのおほきまつりごとひと 大原真人今城。 智努女王 ちぬのおほきみ の 卒 みうせ たまへる後、 圓方女王 まとかたのおほきみ の 悲傷 かなし みてよみたまへる歌一首 4477 夕霧に千鳥の鳴きし佐保路をば荒しやしてむ見るよしをなみ 大原 櫻井 さくらゐの 真人が、佐保川の 辺 ほとり を行く時、よめる歌一首 4478 佐保川に凍りわたれる 薄氷 うすらび の薄き心を我が思はなくに の歌一首 ノ夫人ナリ。 三月の四日、兵部大丞大原真人今城が宅にて、宴する歌 4481 あしひきの 八峯 やつを の椿つらつらに見とも飽かめや植ゑてける君 右のは、兵部少輔大伴家持が 植椿 つばき を 属 み てよめる。 4482 堀江越え遠き里まて送り 来 け る君が心は忘らゆまじも 右の一首は、播磨介、 任 まけところ に 赴 ゆ くときの 別悲 わかれ の歌なり。 主人大原今城伝へ読めりき。 〔勝宝九歳〕六月の二十三日、 大監物 おほきおろしもののつかさ の宅にて、宴する歌一首 4483 移りゆく時見るごとに心痛く昔の人し思ほゆるかも 右、 兵部大輔 つはもののつかさのおほきすけ 大伴宿禰家持がよめる。 4484 咲く花は移ろふ時ありあしひきの 山菅 やますが の根し長くはありけり 右の一首は、大伴宿禰家持が、 物色 もの の 変化 うつ ろへるを 悲伶 かなし みてよめる。 4485 時の花いや 愛 め づらしもかくしこそ 見 め し明らめめ秋立つごとに 右の一首は、大伴宿禰家持がよめる。 天平 てむひやう 宝字 はうじ 元年 はじめのとし 十一月 しもつき の十八日、 内裏 おほうち にて 肆宴 とよのあかり きこしめす歌二首 4486 天地を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ 右の一首は、の御歌。 4487 いざ子ども 狂行 たはわざ なせそ天地の堅めし国そ大和島根は 右の一首は、 奏 まを したまふ。 十二月 しはす の十八日、大監物三形王の宅にて、宴する歌三首 4488 み雪降る冬は今日のみ鴬の鳴かむ春へは明日にしあるらし 右の一首は、主人三形王。 4489 打ち靡く春を近みかぬば玉の今宵の月夜霞みたるらむ 右の一首は、 大蔵大輔 おほくらのつかさのおほきすけ。 4490 あら玉の年往き還り春立たばまづ我が屋戸に鴬は鳴け 右の一首は、 右中弁 みぎのなかのおほともひ 大伴宿禰家持。 4491 大き海の 水底 みなそこ 深く思ひつつ裳引き 平 なら しし菅原の里 右の一首は、が 妻 め 石川女郎 いしかはのいらつめ が、 薄愛離別 したしみおとろへてのち 、 悲恨 かなし みてよめる歌なり。 年月未詳。 二十三日、治部少輔大原今城真人が宅にて、宴する歌一首 4492 月 数 よ めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか 右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 二年 ふたとせといふとし 春正月 むつき の三日、 侍従 おもとひと ・ 堅子 ちひさわらは ・ 王臣等 おほきみたちおみたち を召して、 内裏 おほうち の 東 ひむかし の屋の 垣下 みかきもと に 侍 さもら はしめ、 玉箒 たまばはき を賜ひて肆宴きこしめす。 時に内相藤原朝臣 勅 みことのり を 奉 うけたまは りて、 宣 のりたま はく、 諸王卿等 おほきみたちまへつきみたち 、 随堪任意 こころのまにま 歌よみ 詩 ふみ 賦 つく れとのりたまへり。 仍 かれ 詔旨 みことのり のまにま、 各 おのもおのも 心緒 おもひ を 陳 の べて歌よみ 詩 ふみ 賦 つく れり。 諸人ノ賦レル詩マタ作メル歌ヲ得ズ。 4493 初春の 初子 はつね の今日の 玉箒 たまばはき 手に取るからに揺らく玉の緒 右の一首は、 右中弁 みぎのなかのおほともひ 大伴宿禰家持がよめる。 但し 大蔵 おほくらのつかさ の 政 まつりごと に依りて、え 奏 まを さざりき。 4494 水鳥の鴨の 羽 は の色の青馬を今日見る人は限りなしといふ 右の一首は、七日の 侍宴 とよのあかり の為に、右中弁大伴宿禰家持、此の歌を 預 あらかじ めよめり。 但し仁王 会 おがみ の事に依り、 六日 むかのひ 、 内裏 おほうち に 諸王 もろもろのおほきみたち 卿等 まへつきみたち を召して、酒を賜ひ 肆宴 とよのあかり きこしめし、 禄 もの 給へるに因りて奏さざりき。 六日、 内庭 おほには に仮に 樹木 き を植ゑて、 林帷 かきしろ と 作 し て、肆宴きこしめす歌一首 4495 打ち靡く春ともしるく鴬は植木の 木間 こま を鳴き渡らなむ 右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 二月の、 式部大輔 のりのつかさのおほきすけ が宅にて、宴する歌 4496 恨めしく君はもあるか屋戸の梅の散り過ぐるまで見しめずありける 右の一首は、治部少輔大原今城真人。 4497 見むと言はば 否 いな と言はめや梅の花散り過ぐるまて君が来まさぬ 右の一首は、主人中臣清麿朝臣。 4498 愛 は しきよし今日の 主人 あろじ は磯松の常にいまさね今も見るごと 右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 4499 我が背子しかくし聞こさば天地の神を 乞 こ ひ 祈 の み長くとそ思ふ 右の一首は、 主人 あろじ 中臣清麿朝臣。 4500 梅の花香をかぐはしみ遠けども心もしぬに君をしそ思ふ 右の一首は、 治部大輔 をさむるつかさのおほきすけ 4501 八千種の花は移ろふ 常盤 ときは なる松のさ枝を我は結ばな 右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 4502 梅の花咲き散る春の長き日を見れども飽かぬ磯にもあるかも 右の一首は、大蔵大輔甘南備伊香真人。 4503 君が家の池の白波磯に寄せしばしば見とも飽かむ君かも 右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 4504 うるはしと 吾 あ が 思 も ふ君はいや 日日 ひけ に来ませ我が背子絶ゆる日なしに 右の一首は、主人中臣清麿朝臣。 4505 磯の裏に常呼び来棲む 鴛鴦 をしどり の惜しき 吾 あ が身は君がまにまに 右の一首は、治部少輔大原今城真人。 興 とき に 依 つ けて、 各 おのもおのも 高圓 たかまと の 離宮処 とつみやところ を 思 しぬ ひてよめる歌五首 4506 高圓の野の 上 うへ の宮は荒れにけり立たしし君の御代遠そけば 右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 4507 高圓の 峰 を の 上 うへ の宮は荒れぬとも立たしし君の御名忘れめや 右の一首は、治部少輔大原今城真人。 4508 高圓の野辺はふ 葛 くず の末つひに千代に忘れむ我が大王かも 右の一首は、主人中臣清麿朝臣。 4509 延 は ふ葛の絶えず偲はむ大王の 見 め しし野辺には 標 しめ 結ふべしも 右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 4510 大王の継ぎて 見 め すらし高圓の野辺見るごとに 音 ね のみし泣かゆ 右の一首は、大蔵大輔甘南備伊香真人。 山斎 しまのいへ を 属目 み てよめる歌三首 4511 鴛鴦 をし の棲む君がこの 山斎 しま 今日見れば 馬酔木 あしび の花も咲きにけるかも 右の一首は、大監物 御方王 みかたのおほきみ。 4512 池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を 袖 そて に 扱入 こき れな 右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 4513 磯影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも 右の一首は、大蔵大輔甘南備伊香真人。 二月の十日、内相の宅にて、 渤海 ぼかいに 大使 つかはすつかひのかみ 小野 田守 たもりの 朝臣 等 ら を 餞 うまのはなむけ する宴の歌一首 4514 青海原 あをうなはら 風波なびき往くさ 来 く さ 障 つつ むことなく船は速けむ 右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 未誦之。 七月の五日、治部少輔大原今城真人が宅にて、 因幡守 いなばのかみ 大伴宿禰家持を 餞 うまのはなむけ する宴の歌一首 4515 秋風の末吹き靡く萩の花ともに 挿頭 かざ さず相か別れむ 右の一首は、大伴宿禰家持がよめる。 三年 みとせといふとし 春正月 むつき の 一日 つきたちのひ 、因幡の国の 庁 まつりごととの にて、 国郡司等 つかさびとら を 賜饗 あへ する宴の歌一首 4516 新 あらた しき年の初めの初春の今日降る雪のいや 重 し け 吉事 よごと 右の一首は、 守 かみ 大伴宿禰家持がよめる。 更新日:平成12-08-15 最終更新日:平成20-01-21.

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『父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる』 わかりやすい現代語訳と品詞分解 / 古文 by 走るメロス

父母 が 頭 かき 撫で 幸 く あれ てい ひし 言葉 ぜ 忘れ かね つる

序 万葉集は 我国 ( わがくに )の大切な歌集で、誰でも読んで好いものとおもうが、何せよ歌の数が四千五百有余もあり、一々注釈書に当ってそれを読破しようというのは並大抵のことではない。 そこで選集を作って歌に親しむということも一つの方法だから本書はその方法を採った。 選ぶ態度は大体すぐれた歌を巻毎に拾うこととし、数は先ず全体の一割ぐらいの見込で、長歌は 罷 ( や )めて短歌だけにしたから、万葉の短歌が四千二百足らずあるとして大体一割ぐらい選んだことになろうか。 本書はそのような標準にしたが、これは国民全般が万葉集の短歌として是非知って居らねばならぬものを出来るだけ選んだためであって、万人向きという意図はおのずから 其処 ( そこ )に実行せられているわけである。 ゆえに専門家的に 漸 ( ようや )く標準を高めて行き、読者諸氏は本書から自由に三百首選二百首選一百首選 乃至 ( ないし )五十首選をも作ることが出来る。 それだけの余裕を私は本書のなかに保留して置いた。 そうして選んだ歌に簡単な評釈を加えたが、本書の目的は秀歌の選出にあり、歌が主で注釈が従、評釈は読者諸氏の参考、鑑賞の助手の役目に過ぎないものであって、 而 ( しか )して今は専門学者の高級にして精到な注釈書が幾つも出来ているから、私の評釈の不備な点は 其等 ( それら )から自由に補充することが出来る。 右のごとく歌そのものが主眼、評釈はその従属ということにして、一首一首が大切なのだから飽くまで一首一首に執着して、若し大体の意味が 呑込 ( のみこ )めたら、しばらく私の評釈の文から離れ歌自身について反復熟読せられよ。 読者諸氏は本書を初から順序立てて読まれても 好 ( よ )し、行き当りばったりという工合に 頁 ( ページ )を繰って出た歌だけを読まれても好し、忙しい諸氏は労働のあいま田畔汽車中電車中食後散策後架上就眠前等々に於て、一、二首或は二、三首乃至十首ぐらいずつ読まれることもまた可能である。 要は繰返して読み一首一首を大切に取扱って、早読して以て軽々しく取扱われないことを望むのである。 本書では一首一首に執着するから、いわゆる万葉の精神、万葉の日本的なもの、万葉の国民性などいうことは論じていない。 これに反して一助詞がどう一動詞がどう第三句が 奈何 ( いかん )結句が奈何というようなことを繰返している。 読者諸氏は 此等 ( これら )の言に対してしばらく耐忍せられんことをのぞむ。 万葉集の傑作といい秀歌と称するものも、地を洗って見れば決して魔法のごとく不可思議なものでなく、素直で当り前な作歌の常道を踏んでいるのに他ならぬという、その最も積極的な例を示すためにいきおいそういう細かしきことになったのである。 本書で試みた一首一首の短評中には、先師ほか諸学者の結論が 融込 ( とけこ )んでいること無論であるが、つまりは私の一家見ということになるであろう。 そうして万人向きな、 誰 ( たれ )にも分かる「万葉集入門」を意図したのであったのだけれども、いよいよとなれば仮借しない態度を折に触れつつ示した 筈 ( はず )である。 昭和十三年八月二十九日斎藤茂吉。 中皇命は未詳だが、 賀茂真淵 ( かものまぶち )は 荷田春満 ( かだのあずままろ )の説に 拠 ( よ )り、「皇」の下に「女」を補って、「 中皇女命 ( なかつひめみこのみこと )」と 訓 ( よ )み、舒明天皇の皇女で、のち、孝徳天皇の后に立ちたもうた 間人 ( はしびと )皇后だとし、喜田博士は皇后で後天皇になられた御方だとしたから、此処では 皇極 ( こうぎょく )( 斉明 ( さいめい ))天皇に当らせられる。 即ち前説に拠れば舒明の皇女、後説に拠れば舒明の皇后ということになる。 間人連老は孝徳天皇紀 白雉 ( はくち )五年二月遣唐使の判官に「間人連老」とあるその人であろう。 次に作者は中皇命か間人連老か両説あるが、これは中皇命の御歌であろう。 縦 ( よ )しんば間人連老の作という仮定をゆるすとしても中皇命の御心を以て作ったということになる。 間人連老の作だとする説は、題詞に「御歌」となくしてただ「歌」とあるがためだというのであるが、これは 編輯 ( へんしゅう )当時既に「御」を脱していたのであろう。 考 ( こう )に、「御字を補ひつ」と云ったのは 恣 ( ほしいまま )に過ぎた観があっても 或 ( あるい )は真相を伝えたものかも知れない。 「中大兄三山歌」(巻一・一三)でも「御」の字が無い。 然るにこの三山歌は目録には「中大兄三山御歌」と「御」が入っているに就き、代匠記には「中大兄ハ天智天皇ナレバ 尊 ( みこと )トカ 皇子 ( みこ )トカ 有 ( あり )ヌベキニヤ。 傍例ニヨルニ 尤 ( もっとも ) 有 ( ある )ベシ。 三山ノ下ニ目録ニハ御ノ字アリ。 脱セルカ」と云っている如く、古くから本文に「御」字の無い例がある。 そして、「万葉集はその原本の 儘 ( まま )に伝はり、 改刪 ( かいさん )を経ざるものなるを思ふべし」(講義)を顧慮すると、目録の方の「御」は目録作製の時につけたものとも取れる。 なお、この「御字」につき、「御字なきは転写のとき脱せる 歟 ( か )。 但天皇に献り給ふ故に、献御歌とはかゝざる 歟 ( か )なるべし」( 僻案抄 ( へきあんしょう ))、「御歌としるさざるは、此は天皇に対し奉る所なるから、殊更に御 ノ字をばかゝざりしならんか」( 美夫君志 ( みぶくし ))等の説をも参考とすることが出来る。 それから、 攷證 ( こうしょう )で、「この歌もし中皇命の御歌ならば、そを奉らせ給ふを取次せし人の名を、ことさらにかくべきよしなきをや」と云って、間人連老の作だという説に賛成しているが、これも、 老 ( おゆ )が普通の使者でなくもっと中皇命との関係の深いことを示すので、特にその名を書いたと見れば解釈がつき、必ずしも作者とせずとも済むのである。 考の別記に、「御歌を奉らせ給ふも老は御乳母の子などにて御 睦 ( むつまじ )き故としらる」とあるのは、事実は問わずとも、その思考の 方嚮 ( ほうこう )には間違は無かろうとおもう。 諸注のうち、二説の分布状態は次の如くである。 中皇命作説(僻案抄・考・ 略解 ( りゃくげ )・ 燈 ( ともしび )・ 檜嬬手 ( ひのつまで )・美夫君志・左千夫新釈・講義)、間人連老作説( 拾穂抄 ( しゅうすいしょう )・代匠記・古義・ 攷證 ( こうしょう )・新講・新解・評釈)。 「たまきはる」は 命 ( いのち )、 内 ( うち )、 代 ( よ )等にかかる枕詞であるが諸説があって未詳である。 仙覚・ 契沖 ( けいちゅう )・真淵らの 霊極 ( たまきはる )の説、即ち、「タマシヒノキハマル内の命」の意とする説は余り有力でないようだが、つまりは其処に落着くのではなかろうか。 なお 宣長 ( のりなが )の「あら玉 来経 ( きふ )る」説、即ち年月の経過する 現 ( うつ )という意。 久老 ( ひさおい )の「 程 ( たま ) 来経 ( きふ )る」説。 雅澄 ( まさずみ )の「 手纏 ( たま )き 佩 ( は )く」説等がある。 宇智 ( うち )と 内 ( うち )と同音だからそう用いた。 一首の意は、今ごろは、〔たまきはる〕(枕詞)宇智の大きい野に沢山の馬をならべて朝の御猟をしたまい、その朝草を踏み走らせあそばすでしょう。 露の一ぱいおいた草深い野が目に見えるようでございます、という程の御歌である。 代匠記に、「草深キ野ニハ鹿ヤ鳥ナドノ多ケレバ、宇智野ヲホメテ 再 ( ふたたび ) 云也 ( いふなり )」。 古義に、「けふの御かり御 獲物 ( えもの )多くして御興 尽 ( つき )ざるべしとおぼしやりたるよしなり」とある。 作者が皇女でも皇后でも、天皇のうえをおもいたもうて、その遊猟の有様に 聯想 ( れんそう )し、それを祝福する御心持が一首の響に 滲透 ( しんとう )している。 決して代作態度のよそよそしいものではない。 そこで代作説に賛成する古義でも、「此 題詞 ( ハシツクリ )のこゝろは、契沖も云るごとく、中皇女のおほせによりて間人連老が 作 ( ヨミ )てたてまつれるなるべし。 されど意はなほ皇女の御意を承りて、天皇に聞えあげたるなるべし」と云っているのは、この歌の調べに云うに云われぬ愛情の響があるためで、古義は理論の上では間人連老の作だとしても、鑑賞の上では、皇女の御意云々を否定し得ないのである。 此一事軽々に看過してはならない。 それから、この歌はどういう形式によって献られたかというに、「皇女のよみ給ひし御歌を 老 ( オユ )に 口誦 ( クジユ )して父天皇の御前にて歌はしめ給ふ也」(檜嬬手)というのが真に近いであろう。 一首は、 豊腴 ( ほうゆ )にして荘潔、 些 ( いささか )の渋滞なくその歌調を 完 ( まっと )うして、日本古語の優秀な特色が 隈 ( くま )なくこの一首に出ているとおもわれるほどである。 句割れなどいうものは一つもなく、第三句で「て」を置いたかとおもうと、第四句で、「朝踏ますらむ」と流動的に据えて、小休止となり、結句で二たび起して重厚荘潔なる名詞止にしている。 この名詞の結句にふかい感情がこもり余響が長いのである。 作歌当時は言語が 極 ( きわ )めて容易に自然にこだわりなく運ばれたとおもうが、後代の私等には驚くべき力量として迫って来るし、「その」などという続けざまでも言語の妙いうべからざるものがある。 長歌といいこの反歌といい、万葉集中最高峰の一つとして敬うべく尊むべきものだとおもうのである。 この長歌は、「やすみしし 吾 ( わが ) 大王 ( おほきみ )の、 朝 ( あした )にはとり 撫 ( な )でたまひ、 夕 ( ゆふべ )にはい 倚 ( よ )り立たしし、 御執 ( みと )らしの 梓弓 ( あずさのゆみ )の、 長弭 ( ながはず )( 中弭 ( なかはず ))の音すなり、 朝猟 ( あさかり )に今立たすらし、 暮猟 ( ゆふかり )に今立たすらし、 御執 ( みと )らしの梓弓の、長弭(中弭)の音すなり」(巻一・三)というのである。 これも流動声調で、繰返しによって進行せしめている点は驚くべきほど優秀である。 朝猟夕猟と云ったのは、声調のためであるが、実は、朝猟も夕猟もその時なされたと解することも出来るし、支那の古詩にもこの朝猟夕猟と続けた例がある。 梓弓はアヅサユミノと六音で読む説が有力だが、「 安都佐能由美乃 ( アヅサユミノ )」(巻十四・三五六七)によって、アヅサノユミノと訓んだ。 その方が口調がよいからである。 なお参考歌には、天武天皇御製に、「 その雪の時なきが 如 ( ごと )、 その雨の間なきが 如 ( ごと )、 隈 ( くま )もおちず思ひつつぞ来る、 その山道を」(巻一・二五)がある。 なお山部赤人の歌に、「朝猟に 鹿猪 ( しし ) 履 ( ふ )み起し、夕狩に鳥ふみ立て、馬 並 ( な )めて御猟ぞ立たす、春の 茂野 ( しげぬ )に」(巻六・九二六)がある。 赤人のには此歌の影響があるらしい。 「馬なめて」もよい句で、「友なめて遊ばむものを、馬なめて 往 ( ゆ )かまし里を」(巻六・九四八)という用例もある。 軍王の伝は不明であるが、或は固有名詞でなく、 大将軍 ( いくさのおおきみ )のことかも知れない(近時題詞の軍王見山を山の名だとする説がある)。 天皇の十一年十二月伊豫の 温湯 ( ゆ )の 宮 ( みや )に行幸あったから、そのついでに讃岐安益郡(今の 綾歌 ( あやうた )郡)にも立寄られたのであっただろうか。 「時じみ」は非時、不時などとも書き、時ならずという意。 「寝る夜おちず」は、寝る毎晩毎晩欠かさずにの意。 「かけて」は心にかけての意である。 一首の意は、山を越して、風が時ならず吹いて来るので、ひとり寝る毎夜毎夜、家に残っている妻を心にかけて思い慕うた、というのである。 言葉が順当に運ばれて、作歌感情の極めて素直にあらわれた歌であるが、さればといって平板に失したものでなく、 捉 ( とら )うべきところは決して 免 ( の )がしてはいない。 「山越しの風」は山を越して来る風の意だが、これなども、正岡子規が 嘗 ( かつ )て注意した如く緊密で 巧 ( たくみ )な云い方で、この句があるために、一首が具体的に 緊 ( し )まって来た。 この語には、「朝日かげにほへる山に照る月の飽かざる君を 山越 ( やまごし )に置きて」(巻四・四九五)の例が参考となる。 また、「かけて偲ぶ」という用例は、その他の歌にもあるが、心から離さずにいるという気持で、自然的に同感を伴うために他にも用例が出来たのである。 併しこの「懸く」という如き 云 ( い )い方はその時代に発達した云い方であるので、現在の私等が直ちにそれを取って歌語に用い、心の直接性を得るという 訣 ( わけ )に行かないから、私等は、語そのものよりも、その語の出来た心理を学ぶ方がいい。 なおこの歌で学ぶべきは全体としてのその古調である。 第三句の字余りなどでもその 破綻 ( はたん )を来さない微妙な点と、「風を時じみ」の如く 圧搾 ( あっさく )した云い方と、結句の「つ」止めと、そういうものが相待って 綜合 ( そうごう )的な古調を成就しているところを学ぶべきである。 第三句の字余りは、人麿の歌にも、「 幸 ( さき )くあれど」等があるが、後世の第三句の字余りとは趣がちがうので破綻 云々 ( うんぬん )と云った。 「つ」止めの参考歌には、「越の海の 手結 ( たゆひ )の浦を旅にして見ればともしみ大和しぬびつ」(巻三・三六七)等がある。 ただ 兎道 ( うじ )は山城の宇治で、大和と近江との交通路に当っていたから、行幸などの時に仮の御旅宿を宇治に設けたもうたことがあったのであろう。 その時額田王は 供奉 ( ぐぶ )し、後に当時を追懐して詠んだものと想像していい。 額田王は、額田姫王と書紀にあるのと同人だとすると、額田王は 鏡王 ( かがみのおおきみ )の女で、 鏡女王 ( かがみのおおきみ )の妹であったようだ。 初め 大海人皇子 ( おおあまのみこ )と 御婚 ( みあい )して 十市皇女 ( とおちのひめみこ )を生み、ついで天智天皇に 寵 ( ちょう )せられ近江京に行っていた。 「かりいほ」は、原文「 仮五百 ( かりいほ )」であるが真淵の 考 ( こう )では、カリホと訓んだ。 一首の意。 嘗 ( かつ )て天皇の行幸に御伴をして、山城の宇治で、秋の野のみ草( 薄 ( すすき )・ 萱 ( かや ))を刈って 葺 ( ふ )いた 行宮 ( あんぐう )に 宿 ( やど )ったときの興深かったさまがおもい出されます。 この歌は、独詠的の追懐であるか、或は対者にむかってこういうことを云ったものか不明だが、単純な独詠ではないようである。 意味の内容がただこれだけで取りたてていうべき曲が無いが、単純素朴のうちに浮んで来る写象は鮮明で、且つその声調は清潔である。 また単純な独詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奥から伝わって来るのをおぼえるのである。 この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であった。 歌の左注に、 山上憶良 ( やまのうえのおくら )の 類聚歌林 ( るいじゅうかりん )に、一書によれば、 戊申年 ( つちのえさるのとし )、比良宮に行幸の時の御製云々とある。 この戊申の歳を大化四年とすれば、孝徳天皇の御製ということになるが、今は額田王の歌として味うのである。 題詞等につき、万葉の編輯当時既に異伝があったこと斯くの如くである。 其時お伴をした額田王の詠んだ歌である。 熟田津という港は現在何処かというに、松山市に近い三津浜だろうという説が有力であったが、今はもっと道後温泉に近い山寄りの地(御幸寺山附近)だろうということになっている。 即ち現在はもはや海では無い。 一首の意は、伊豫の熟田津で、御船が進発しようと、月を待っていると、いよいよ月も明月となり、潮も満ちて船出するのに都合好くなった。 さあ榜ぎ出そう、というのである。 「船乗り」は此処ではフナノリという名詞に使って居り、人麿の歌にも、「船乗りすらむをとめらが」(巻一・四〇)があり、また、「播磨国より船乗して」(遣唐使時奉幣祝詞)という用例がある。 また、「月待てば」は、ただ月の出るのを待てばと解する説もあるが、此は満潮を待つのであろう。 月と潮汐とには関係があって、日本近海では大体月が東天に上るころ潮が満始るから、この歌で月を待つというのはやがて満潮を待つということになる、また書紀の、「庚戌泊 二于伊豫熟田津石湯行宮 一」とある 庚戌 ( かのえいぬ )は十四日に当る。 三津浜では現在陰暦の十四日頃は月の上る午後七、八時頃八合満となり午後九時前後に満潮となるから、此歌は 恰 ( あたか )も大潮の満潮に当ったこととなる。 すなわち当夜は月明であっただろう。 月が満月でほがらかに潮も満潮でゆたかに、一首の声調大きくゆらいで、古今に稀なる秀歌として現出した。 そして五句とも句割がなくて整調し、句と句との続けに、「に」、「と」、「ば」、「ぬ」等の助詞が極めて自然に使われているのに、「船乗 せむと」、「榜ぎ いでな」という具合に流動の節奏を以て 緊 ( し )めて、それが第二句と結句である点などをも注意すべきである。 結句は八音に字を余し、「今は」というのも、なかなか強い語である。 この結句は命令のような大きい語気であるが、 縦 ( たと )い作者は女性であっても、集団的に心が融合し、大御心をも含め奉った全体的なひびきとしてこの表現があるのである。 供奉応詔歌の真髄もおのずからここに存じていると 看 ( み )ればいい。 結句の原文は、「許芸乞菜」で、旧訓コギコナであったが、代匠記初稿本で、「こぎ出なとよむべきか」という一訓を案じ、万葉集燈でコギイデナと定めるに至った。 「乞」をイデと 訓 ( よ )む例は、「 乞我君 ( イデアギミ )」、「 乞我駒 ( イデワガコマ )」などで、元来さあさあと促がす 詞 ( ことば )であるのだが「出で」と同音だから借りたのである。 一字の訓で一首の価値に大影響を及ぼすこと斯くの如くである。 また初句の「熟田津に」の「に」は、「に 於 ( おい )て」の意味だが、 橘守部 ( たちばなのもりべ )は、「に向って」の意味に解したけれどもそれは誤であった。 斯 ( か )く一助詞の解釈の差で一首の意味が全く違ってしまうので、 訓詁 ( くんこ )の学の大切なことはこれを見ても分かる。 なお、この歌は山上憶良の類聚歌林に 拠 ( よ )ると、斉明天皇が舒明天皇の皇后であらせられた時一たび天皇と共に伊豫の湯に御いでになられ、それから斉明天皇の九年に二たび伊豫の湯に御いでになられて、往時を追懐遊ばされたとある。 そうならば此歌は斉明天皇の御製であろうかと左注で云っている。 若しそれが本当で、前に出た宇智野の歌の中皇命が斉明天皇のお若い時(舒明皇后)だとすると、この秀歌を理会するにも便利だとおもうが、此処では題どおりに額田王の歌として鑑賞したのであった。 橘守部は、「熟田津に」を「に向って」と解し、「此歌は備前の 大伯 ( オホク )より伊与の熟田津へ渡らせ給ふをりによめるにこそ」と云ったが、それは誤であった。 併し、「に」に 方嚮 ( ほうこう )(到着地)を示す用例は無いかというに、やはり用例はあるので、「 粟島 ( あはしま )に漕ぎ渡らむと思へども 明石 ( あかし )の 門浪 ( となみ )いまだ騒げり」(巻七・一二〇七)。 この歌の「に」は方嚮を示している。 原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、 吾瀬子之 ( ワガセコガ )、 射立為兼 ( イタタセリケム )、 五可新何本 ( イツカシガモト )」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。 契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと 謂 ( い )っていい。 そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ 厳橿 ( いつかし )が 本 ( もと )」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。 下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。 厳橿 ( いつかし )は 厳 ( おごそ )かな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。 その樹の下に 嘗 ( かつ )て私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。 或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。 この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。 書紀垂仁巻に、天皇以 二倭姫命 一為 二御杖 一貢 二奉於天照大神 一是以倭姫命以 二天照大神 ヲ 一鎮 二坐磯城 ノ厳橿之本 一とあり、古事記雄略巻に、 美母呂能 ( ミモロノ )、 伊都加斯賀母登 ( イツカシガモト )、 加斯賀母登 ( カシガモト )、 由由斯伎加母 ( ユユシキカモ )、 加志波良袁登売 ( カシハラヲトメ )、云々とある如く、神聖なる場面と関聯し、 橿原 ( かしはら )の 畝火 ( うねび )の山というように、橿の木がそのあたり一帯に茂っていたものと見て、そういうことを種々念中に持ってこの句を味うこととしていた。 考頭注に、「このかしは神の坐所の 斎木 ( ゆき )なれば」云々。 古義に、「清浄なる橿といふ義なるべければ」云々の如くであるが、私は、大体を想像して味うにとどめている。 さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむずかしくて私の心に遠いので、差向き真淵訓に従った。 真淵は、「円(圓)」を「国(國)」だとし、 古兄 湯気 ( コエテユケ )だとした。 考に云、「こはまづ神武天皇紀に 依 ( よる )に、今の大和国を内つ国といひつ。 さて其内つ国を、こゝに 囂 ( サヤギ )なき国と書たり。 同紀に、 雖辺土未清余妖尚梗而 ( トツクニハナホサヤゲリトイヘドモ )、 中洲之地無風塵 ( ウチツクニハヤスラケシ )てふと同意なるにて 知 ( しり )ぬ。 かくてその隣とは、此度は紀伊国を 差 ( さす )也。 然れば莫囂国隣之の五字は、 紀乃久爾乃 ( キノクニノ )と 訓 ( よむ )べし。 又右の紀に、辺土と中州を 対 ( むかへ ) 云 ( いひ )しに依ては、此五字を 外 ( ト )つ国のとも訓べし。 然れども云々の隣と書しからは、遠き国は本よりいはず、近きをいふなる中に、一国をさゝでは 此哥 ( このうた )にかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、 猶 ( なほ )上の訓を取るべし」とあり、なお真淵は、「こは 荷田大人 ( かだのうし )のひめ 哥 ( うた )也。 さて此哥の初句と、斉明天皇紀の 童謡 ( ワザウタ )とをば、はやき世よりよく 訓 ( ヨム )人なければとて、彼童謡をば己に、此哥をばそのいろと荷田 ノ 信名 ( のぶな ) ノ 宿禰 ( すくね )に伝へられき。 其後多く年経て此訓をなして、山城の稲荷山の荷田の家に 問 ( とふ )に、全く古大人の訓に 均 ( ひと )しといひおこせたり。 然れば惜むべきを、ひめ隠しおかば、荷田大人の功も 徒 ( いたづら )に 成 ( なり )なんと、我友皆いへればしるしつ」という感慨を漏らしている。 書紀垂仁天皇巻に、伊勢のことを、「 傍国 ( かたくに )の 可怜国 ( うましくに )なり」と云った如くに、大和に隣った国だから、紀の国を考えたのであっただろうか。 古義では、「 三室 ( みもろ )の 大相土見乍湯家 ( ヤマミツツユケ )吾が背子がい立たしけむ厳橿が 本 ( もと )」と訓み、奠器 円 レ隣 ( メグラス )でミモロと訓み、神祇を安置し奉る室の義とし、古事記の 美母呂能伊都加斯賀母登 ( ミモロノイツカシガモト )を参考とした。 そして真淵説を、「紀 ノ国の山を超て 何処 ( イヅク )に行とすべけむや、 無用説 ( イタヅラゴト )といふべし」と評したが、 併 ( しか )しこの古義の言は、「紀の山をこえていづくにゆくにや」と荒木田 久老 ( ひさおい )が 信濃漫録 ( しなのまんろく )で云ったその模倣である。 真淵訓の「紀の国の山越えてゆけ」は、調子の弱いのは残念である。 この訓は何処か 弛 ( たる )んでいるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張している。 「吾が背子」は、或は 大海人皇子 ( おおあまのみこ )(考・古義)で、京都に留まって居られたのかと解している。 そして真淵訓に仮りに従うとすると、「紀の国の山を越えつつ行けば」の意となる。 紀の国の山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになったと聞いた神の森のところを、わたくしも丁度通過して、なつかしくおもうております、というぐらいの意になる。 中皇命は前言した如く不明だし、前の中皇命と同じ方かどうかも分からない。 天智天皇の皇后倭姫命だろうという説(喜田博士)もあるが未定である。 若し同じおん方だろうとすると、皇極天皇(斉明天皇)に当らせ給うことになるから、この歌は 後崗本宮 ( のちのおかもとのみや )御宇天皇(斉明)の処に配列せられているけれども、或は天皇がもっとお若くましました頃の御歌ででもあろうか。 一首の意は、あなたが今旅のやどりに仮小舎をお作りになっていらっしゃいますが、若し屋根葺く 萱草 ( かや )が御不足なら、 彼処 ( あそこ )の小松の下の萱草をお刈りなさいませ、というのである。 中皇命は不明だが、歌はうら若い高貴の女性の御語気のようで、その単純素朴のうちにいいがたい香気のするものである。 こういう語気は万葉集でも後期の歌にはもはや感ずることの出来ないものである。 「わが背子は」というのは客観的のいい方だが、実は、「あなたが」というので、当時にあってはこういう云い方には深い情味をこもらせ得たものであっただろう。 そのほか 穿鑿 ( せんさく )すればいろいろあって、例えばこの歌には加行の音が多い、そしてカの音を繰返した調子であるというような事であるが、それは幾度も吟誦すれば自然に分かることだから今はこまかい 詮議立 ( せんぎだて )は 罷 ( や )めることにする。 契沖は、「我が背子」を「御供ノ人ヲサシ給ヘリ」といったが、やはりそうでなく御一人をお 指 ( さ )し申したのであろう。 また、この歌に「小松にあやかりて、ともにおひさきも久しからむと、これ又長寿をねがふうへにのみして詞をつけさせ給へるなり」(燈)という如き底意があると説く説もあるが、これも現代人の作歌稽古のための鑑賞ならば、この儘で素直に 受納 ( うけい )れる方がいいようにおもう。 野島は紀伊の日高郡日高川の下流に名田村大字野島があり、阿胡根の浦はその海岸である。 珠 ( たま )は美しい貝又は小石。 中には真珠も含んで居る。 「紀のくにの浜に寄るとふ、 鰒珠 ( あはびだま )ひりはむといひて」(巻十三・三三一八)は真珠である。 一首の意は、わたくしの 希 ( ねが )っていた野島の海浜の景色はもう見せていただきました。 けれど、底の深い阿胡根浦の珠はいまだ拾いませぬ、というので、うちに 此処 ( ここ )深海の真珠が欲しいものでございますという意も含まっている。 「野島は見せつ」は自分が人に見せたように聞こえるが、此処は見せて頂いたの意で、散文なら、「君が吾に野島をば見せつ」という具合になる。 この歌も若い女性の 口吻 ( こうふん )で、純真澄み透るほどな快いひびきを持っている。 そして一首は常識的な平板に陥らず、末世人が舌不足と難ずる如き渋みと厚みとがあって、軽薄ならざるところに古調の尊さが存じている。 これがあえて此種の韻文のみでなく、普通の談話にもこういう尊い香気があったものであろうか。 この歌の稍主観的な語は、「わが欲りし」と、「底ふかき」とであって、知らず 識 ( し )らずあい対しているのだが、それが毫も目立っていない。 高市黒人 ( たけちのくろひと )の歌に、「吾妹子に 猪名野 ( ゐなぬ )は見せつ 名次山 ( なすぎやま ) 角 ( つぬ )の松原いつか示さむ」(巻三・二七九)があり、この歌より明快だが、却って通俗になって軽くひびく。 この場合の「見せつ」は、「吾妹子に猪名野をば見せつ」だから、普通のいい方で分かりよいが含蓄が無くなっている。 現に中皇命の御歌も、或本には、「わが欲りし子島は見しを」となっている。 これならば意味は分かりよいが、歌の味いは減るのである。 第一首の、「君が代も我が代も知らむ(知れや) 磐代 ( いはしろ )の岡の 草根 ( くさね )をいざ結びてな」(巻一・一〇)も、生えておる草を結んで寿を祝う歌で、「代」は「いのち」即ち寿命のことである。 まことに佳作だから一しょにして味うべきである。 以上の三首を憶良の類聚歌林には、「天皇御製歌」とあるから、皇極(斉明)天皇と想像し奉り、その中皇命時代の御作とでも想像し奉るか。 長歌は、「 香具山 ( かぐやま )は 畝傍 ( うねび )を 愛 ( を )しと、 耳成 ( みみなし )と相争ひき、神代より斯くなるらし、 古 ( いにしへ )も 然 ( しか )なれこそ、 現身 ( うつそみ )も妻を、争ふらしき」というのであるが、反歌の方は、この三山が相争った時、出雲の 阿菩大神 ( あほのおおかみ )がそれを 諫止 ( かんし )しようとして出立し、 播磨 ( はりま )まで来られた 頃 ( ころ )に三山の争闘が止んだと聞いて、大和迄行くことをやめたという播磨 風土記 ( ふどき )にある伝説を取入れて作っている。 風土記には 揖保 ( いぼ )郡の処に記載されてあるが印南の方にも同様の伝説があったものらしい。 「会ひし時」は「相戦った時」、「相争った時」という意味である。 書紀神功皇后巻に、「いざ会はなわれは」とあるは相闘う意。 毛詩に、「肆伐 二大商 一会朝清明」とあり、「会える朝」は即ち会戦の旦也と注せられた。 共に同じ用法である。 この歌の「立ちて見に来し」の主格は、それだから阿菩大神になるのだが、それが一首のうえにはあらわれていない。 そこで一読しただけでは、印南国原が立って見に来たように受取れるのであるが、結句の「印南国原」は場処を示すので、大神の来られたのは、此処の印南国原であった、という意味になる。 一首に主格も省略し、結句に、「印南国原」とだけ云って、その結句に助詞も助動詞も無いものだが、それだけ散文的な通俗を脱却して、 蒼古 ( そうこ )とも 謂 ( い )うべき形態と響きとを持っているものである。 長歌が蒼古 峻厳 ( しゅんげん )の特色を持っているが、この反歌もそれに優るとも劣ってはいない。 この一首の単純にしてきびしい形態とその響とは、恐らくは婦女子等の鑑賞に堪えざるものであろう。 一首の中に三つも固有名詞が入っていて、毫も不安をおぼえしめないのは衷心驚くべきである。 後代にしてかかるところを 稍 ( やや )悟入し得たものは歌人として平賀元義ぐらいであっただろう。 「中大兄」は、考ナカツオホエ、古義ナカチオホエ、と訓んでいる。 併し三山の歌とせずに、同一作者が印南野海浜あたりで御作りになった叙景の歌と 看做 ( みな )せば解釈が出来るのである。 今、浜べに立って見わたすに、 海上 ( かいじょう )に大きい旗のような雲があって、それに赤く 夕日 ( ゆうひ )の光が差している。 この様子では、多分 今夜 ( こんや )の月は 明月 ( めいげつ )だろう。 結句の原文、「清明己曾」は旧訓スミアカクコソであったのを、真淵がアキラケクコソと訓んだ。 そうすれば、アキラケクコソアラメという推量になるのである。 山田博士の講義に、「下にアラメといふべきを略せるなり。 かく係助詞にて止め、下を略するは一種の語格なり」と云ってある。 「豊旗雲」は、「 豊雲野神 ( とよくもぬのかみ )」、「 豊葦原 ( とよあしはら )」、「 豊秋津州 ( とよあきつしま )」、「 豊御酒 ( とよみき )」、「 豊祝 ( とよほぎ )」などと同じく「豊」に特色があり、古代日本語の優秀を示している一つである。 以上のように解してこの歌を味えば、荘麗ともいうべき大きい自然と、それに参入した作者の 気魄 ( きはく )と相融合して読者に迫って来るのであるが、如是荘大雄厳の歌詞というものは、遂に後代には跡を断った。 万葉を崇拝して万葉調の歌を作ったものにも絶えて此歌に及ぶものがなかった。 その何故であるかを吾等は一たび 省 ( かえりみ )ねばならない。 後代の歌人等は、 渾身 ( こんしん )を以て自然に参入してその写生をするだけの意力に乏しかったためで、この実質と単純化とが遂に後代の歌には見られなかったのである。 第三句の、「入日さし」と中止法にしたところに、小休止があり、不即不離に第四句に続いているところに歌柄の大きさを感ぜしめる。 結句の推量も、赤い夕雲の光景から月明を直覚した、素朴で人間的直接性を 有 ( も )っている。 (願望とする説は、心が 稍 ( やや )間接となり、技巧的となる。 ) 「清明」を真淵に従ってアキラケクと訓んだが、これには諸訓があって未だ一定していない。 旧訓スミアカクコソで、此は随分長く行われた。 然るに真淵は考でアキラケクコソと訓み、「今本、清明の字を追て、すみあかくと訓しは、万葉をよむ事を得ざるものぞ、紀にも、清白心をあきらけきこゝろと訓し也」と云った。 古義では、「アキラケクといふは古言にあらず」として、キヨクテリコソと訓み、明は照の誤写だろうとした。 なおその他の訓を記せば次のごとくである。 スミアカリコソ(京大本)。 サヤケシトコソ(春満)。 サヤケクモコソ(秋成)。 マサヤケクコソ(古泉千樫)。 サヤニテリコソ(佐佐木信綱)。 キヨクアカリコソ(武田祐吉・佐佐木信綱)。 マサヤケミコソ(品田太吉)。 サヤケカリコソ(三矢重松・斎藤茂吉・森本治吉)。 キヨラケクコソ(松岡静雄・折口信夫)。 マサヤカニコソ(沢瀉久孝)等の諸訓がある。 けれども、今のところ皆真淵訓には及び難い感がして居るので、自分も真淵訓に従った。 真淵のアキラケクコソの訓は、古事記伝・略解・燈・檜嬬手・攷證・美夫君志・ 註疏 ( ちゅうそ )・新考・講義・新講等皆それに従っている。 ただ、燈・美夫君志等は意味を違えて取った。 さて、結句の「清明己曾」をアキラケクコソと訓んだが、これに異論を唱える人は、万葉時代には月光の形容にキヨシ、サヤケシが用いられ、アカシ、アキラカ、アキラケシの類は絶対に使わぬというのである。 成程万葉集の用例を見れば大体そうである。 けれども「絶対に」使わぬなどとは 云 ( い )われない。 「 日月波 ( ヒツキハ )、 安可之等伊倍騰 ( アカシトイヘド )、 安我多米波 ( アガタメハ )、 照哉多麻波奴 ( テリヤタマハヌ )」(巻五・八九二)という憶良の歌は、明瞭に日月の光の形容にアカシを使っているし、「 月読明少夜者更下乍 ( ツクヨミノアカリスクナキヨハフケニツツ )」(巻七・一〇七五)でも月光の形容にアカリを使っているのである。 平安朝になってからは、「 秋の夜の月の光しあかければくらぶの山もこえぬべらなり」(古今・秋上)、「桂川 月のあかきにぞ渡る」(士佐日記)等をはじめ用例は多い。 併し万葉時代と平安朝時代との言語の移行は暫時的・流動的なものだから、突如として変化するものでないことは、この実例を以ても証明することが出来たのである。 約 ( つづ ) めていえば、 万葉時代に月光の形容にアカシを用いた。 次に、「 安我己許呂安可志能宇良爾 ( アガココロアカシノウラニ )」(巻十五・三六二七)、「 吾情清隅之池之 ( アガココロキヨスミノイケノ )」(巻十三・三二八九)、「 加久佐波奴安加吉許己呂乎 ( カクサハヌアカキココロヲ )」(巻二十 四四六五)、「 汝心之清明 ( ミマシガココロノアカキコトハ )」、「 我心清明故 ( アガココロアカキユヱニ )」(古事記・上巻)、「有 リ 二 清心 ( キヨキココロ ) 一」(書紀神代巻)、「 浄伎明心乎持弖 ( キヨキアカキココロヲモチテ )」(続紀・巻十)等の例を見れば、心あかし、心きよし、あかき心、きよき心は、共通して用いられたことが分かるし、なお、「敷島のやまとの国に 安伎良気伎 ( アキラケキ )名に負ふとものを心つとめよ」(巻二十・四四六六)、「つるぎ大刀いよよ研ぐべし古へゆ 佐夜気久於比弖 ( サヤケクオヒテ )来にしその名ぞ」(同・四四六七)の二首は、大伴家持の連作で、二つとも「名」を 咏 ( よ )んでいるのだが、アキラケキとサヤケキとの流用を証明しているのである。 そして、「春日山押して照らせる此月は妹が庭にも 清有家里 ( サヤケカリケリ )」(巻七・一〇七四)は、月光にサヤケシを用いた例であるから、以上を 綜合 ( そうごう )して 観 ( み )るに、アキラケシ、サヤケシ、アカシ、キヨシ、などの形容詞は互に共通して用いられ、互に流用せられたことが分かる。 新撰字鏡 ( しんせんじきょう )に、明。 阿加之 ( アカシ )、 佐也加爾在 ( サヤカニアリ )、 佐也介之 ( サヤケシ )、 明介志 ( アキラケシ )( 阿支良介之 ( アキラケシ ))等とあり、 類聚名義抄 ( るいじゅうみょうぎしょう )に、明 可在月 アキラカナリ、ヒカル等とあるのを見ても、サヤケシ、アキラケシの流用を認め得るのである。 結論、 万葉時代に月光の形容にアキラケシと使ったと認めて差支ない。 次に、結句の「己曾」であるが、これも万葉集では、結びにコソと使って、コソアラメと云った例は絶対に無いという反対説があるのだが、平安朝になると、形容詞からコソにつづけてアラメを省略した例は、「心美しきこそ」、「いと苦しくこそ」、「いとほしうこそ」、「片腹いたくこそ」等をはじめ用例が多いから、それがもっと時代が 溯 ( さかのぼ )っても、日本語として、絶対に使わなかったとは謂えぬのである。 特に感動の強い時、形式の制約ある時などにこの用法が行われたと解釈すべきである。 なお、 安伎良気伎 ( アキラケキ )、 明久 ( アキラケク )、 左夜気伎 ( サヤケキ )、 左夜気久 ( サヤケク )は 謂 ( いわ )ゆる乙類の仮名で、形容詞として活用しているのである。 結論、 アキラケク・ コソという用法は、 アキラケク・ コソ・ アラメという用法に等しいと解釈して差支ない。 (本書は簡約を目的としたから大体の論にとどめた。 別論がある。 ) 以上で、大体解釈が終ったが、この歌には異った解釈即ち、今は曇っているが、今夜は月明になって欲しいものだと解釈する説(燈・古義・美夫君志等)、或は、第三句までは現実だが、下の句は願望で、月明であって欲しいという説(選釈・新解等)があるのである。 而して、「今夜の月さやかにあれかしと 希望 ( ネガヒ )給ふなり」(古義)というのは、キヨクテリコソと訓んで、連用言から続いたコソの終助詞即ち、希望のコソとしたから自然この解釈となったのである。 結句を推量とするか、希望とするか、鑑賞者はこの二つの説を 受納 ( うけい )れて、相比較しつつ味うことも 亦 ( また )可能である。 そしていずれが歌として優るかを判断すべきである。 併し、「額田王下 二近江 一時作歌、井戸王即和歌」という題詞があるので、額田王作として解することにする。 「 味酒 ( うまざけ )三輪の山、 青丹 ( あをに )よし奈良の山の、山のまにい隠るまで、道の 隈 ( くま )い 積 ( つも )るまでに、 委 ( つばら )にも見つつ行かむを、しばしばも 見放 ( みさ )けむ山を、心なく雲の、 隠 ( かく )さふべしや」という長歌の反歌である。 「しかも」は、そのように、そんなにの意。 一首の意は、三輪山をばもっと見たいのだが、雲が隠してしまった。 そんなにも隠すのか、 縦 ( たと )い雲でも 情 ( なさけ )があってくれよ。 こんなに隠すという法がないではないか、というのである。 「あらなむ」は 将然言 ( しょうぜんげん )につく願望のナムであるが、山田博士は原文の「南畝」をナモと訓み、「 情 ( こころ )アラナモ」とした。 これは古形で同じ意味になるが、類聚古集に「南武」とあるので、 暫 ( しばら )く「情アラナム」に従って置いた。 その方が、結句の響に調和するとおもったからである。 結句の「隠さふべしや」の「や」は強い反語で、「隠すべきであるか、決して隠すべきでは無い」ということになる。 長歌の結末にもある句だが、それを短歌の結句にも繰返して居り、情感がこの結句に集注しているのである。 この作者が抒情詩人として優れている点がこの一句にもあらわれており、天然の現象に、 恰 ( あたか )も生きた人間にむかって物言うごとき態度に出て、 毫 ( ごう )も 厭味 ( いやみ )を感じないのは、直接であからさまで、擬人などという意図を余り意識しないからである。 これを 試 ( こころみ )に、 在原業平 ( ありわらのなりひら )の、「飽かなくにまだきも月の隠るるか山の 端 ( は )逃げて入れずもあらなむ」(古今・雑上)などと比較するに及んで、更にその特色が 瞭然 ( りょうぜん )として来るのである。 カクサフはカクスをハ行四段に活用せしめたもので、時間的経過をあらわすこと、チル、チラフと同じい。 「奥つ藻を 隠さふなみの五百重浪」(巻十一・二四三七)、「 隠さはぬあかき心を、 皇方 ( すめらべ )に極めつくして」(巻二十・四四六五)の例がある。 なおベシヤの例は、「大和恋ひいの寝らえぬに 情 ( こころ )なくこの 渚 ( す )の埼に 鶴 ( たづ )鳴くべしや」(巻一・七一)、「出でて行かむ時しはあらむを 故 ( ことさ )らに妻恋しつつ立ちて行くべしや」(巻四・五八五)、「 海 ( うみ )つ 路 ( ぢ )の 和 ( な )ぎなむ時も渡らなむかく立つ浪に船出すべしや」(巻九・一七八一)、「たらちねの母に 障 ( さは )らばいたづらに 汝 ( いまし )も吾も事成るべしや」(巻十一・二五一七)等である。 その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である。 額田王ははじめ大海人皇子に 婚 ( みあ )い 十市皇女 ( とおちのひめみこ )を生んだが、後天智天皇に召されて宮中に侍していた。 この歌は、そういう関係にある時のものである。 「あかねさす」は紫の枕詞。 「紫野」は染色の原料として 紫草 ( むらさき )を栽培している野。 「標野」は御料地として 濫 ( みだ )りに人の出入を禁じた野で即ち蒲生野を指す。 「野守」はその御料地の 守部 ( もりべ )即ち番人である。 一首の意は、お慕わしいあなたが紫草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きになって、私に御袖を振り遊ばすのを、野の番人から見られはしないでしょうか。 それが不安心でございます、というのである。 この「野守」に就き、或は天智天皇を申し奉るといい、或は諸臣のことだといい、皇太子の御思い人だといい、種々の取沙汰があるが、其等のことは奥に潜めて、野守は野守として大体を味う方が好い。 また、「野守は見ずや君が袖ふる」をば、「立派なあなた(皇太子)の御姿を野守等よ見ないか」とうながすように解する説もある。 「袖ふるとは、男にまれ女にまれ、立ありくにも道など行くにも、そのすがたの、なよ/\とをかしげなるをいふ」(攷證)。 「わが愛する皇太子がかの野をか行きかく行き袖ふりたまふ姿をば人々は見ずや。 われは見るからにゑましきにとなり」(講義)等である。 併し、袖振るとは、「わが振る袖を妹見つらむか」(人麿)というのでも分かるように、ただの客観的な姿ではなく、恋愛心表出のための一つの行為と解すべきである。 この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、濃やかな情緒に伴う、甘美な 媚態 ( びたい )をも感じ得るのである。 「野守は見ずや」と強く云ったのは、一般的に云って居るようで、 寧 ( むし )ろ皇太子に 愬 ( うった )えているのだと解して好い。 そういう強い句であるから、その句を先きに云って、「君が袖振る」の方を後に置いた。 併しその倒句は単にそれのみではなく、結句としての声調に、「袖振る」と止めた方が適切であり、また女性の語気としてもその方に直接性があるとおもうほど微妙にあらわれて居るからである。 甘美な媚態云々というのには、「紫野ゆき標野ゆき」と 対手 ( あいて )の行動をこまかく云い現して、語を繰返しているところにもあらわれている。 一首は平板に直線的でなく、立体的波動的であるがために、重厚な奥深い響を持つようになった。 先進の注釈書中、この歌に、大海人皇子に他に恋人があるので 嫉 ( ねた )ましいと解したり(燈・美夫君志)、或は、戯れに 諭 ( さと )すような分子があると説いたのがあるのは(考)、一首の甘美な 愬 ( うった )えに触れたためであろう。 「袖振る」という行為の例は、「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」(巻二・一三二)、「 凡 ( おほ )ならばかもかも 為 ( せ )むを 恐 ( かしこ )みと振りたき袖を 忍 ( しぬ )びてあるかも」(巻六・九六五)、「高山の 岑 ( みね )行く 鹿 ( しし )の友を多み袖振らず来つ忘ると念ふな」(巻十一・二四九三)などである。 一首の意は、紫の色の美しく 匂 ( にお )うように美しい 妹 ( いも )(おまえ)が、若しも憎いのなら、もはや他人の妻であるおまえに、かほどまでに恋する 筈 ( はず )はないではないか。 そういうあぶないことをするのも、おまえが可哀いからである、というのである。 この「人妻ゆゑに」の「ゆゑに」は「人妻だからと 云 ( い )って」というのでなく、「人妻に 由 ( よ )って恋う」と、「恋う」の原因をあらわすのである。 「人妻ゆゑにわれ恋ひにけり」、「ものもひ 痩 ( や )せぬ人の子ゆゑに」、「わがゆゑにいたくなわびそ」等、これらの例万葉に 甚 ( はなは )だ多い。 恋人を花に 譬 ( たと )えたのは、「つつじ花にほえ少女、桜花さかえをとめ」(巻十三・三三〇九)等がある。 この御歌の方が、額田王の歌に比して、直接で且つ強い。 これはやがて女性と男性との感情表出の差別ということにもなるとおもうが、恋人をば、高貴で鮮麗な紫の色にたぐえたりしながら、 然 ( し )かもこれだけの複雑な御心持を、直接に力づよく表わし得たのは驚くべきである。 そしてその根本は心の集注と純粋ということに帰着するであろうか。 自分はこれを万葉集中の傑作の一つに評価している。 集中、「憎し」という語のあるものは、「憎くもあらめ」の例があり、「 憎 ( にく )くあらなくに」、「 憎 ( にく )からなくに」の例もある。 この歌に、「憎」の語と、「恋」の語と二つ入っているのも顧慮してよく、毫も調和を破っていないのは、憎い(嫌い)ということと、恋うということが調和を破っていないがためである。 この贈答歌はどういう形式でなされたものか不明であるが、恋愛贈答歌には 縦 ( たと )い切実なものでも、底に甘美なものを蔵している。 ゆとりの遊びを蔵しているのは止むことを得ない。 なお、巻十二(二九〇九)に、「おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや」という歌があって類似の歌として味うことが出来る。 波多 ( はた )の地は 詳 ( つまびらか )でないが、伊勢 壱志 ( いちし )郡八太村の辺だろうと云われている。 一首の意は、この河の 辺 ( ほとり )の多くの巌には少しも草の生えることがなく、 綺麗 ( きれい )で 滑 ( なめら )かである。 そのようにわが皇女の君も永久に美しく容色のお変りにならないでおいでになることをお願いいたします、というのである。 「常少女」という語も、古代日本語の特色をあらわし、まことに感歎せねばならぬものである。 今ならば、「永遠処女」などというところだが、到底この古語には及ばない。 作者は恐らく老女であろうが、皇女に対する敬愛の情がただ純粋にこの一首にあらわれて、単純古調のこの一首を吟誦すれば寧ろ荘厳の気に打たれるほどである。 古調という中には、一つ一つの語にいい知れぬ味いがあって、後代の吾等は潜心その吟味に努めねばならぬもののみであるが、第三句の「草むさず」から第四句への 聯絡 ( れんらく )の具合、それから第四句で切って、結句を「にて」にて止めたあたり、皆繰返して読味うべきもののみである。 この歌の結句と、「野守は見ずや君が袖ふる」などと比較することもまた 極 ( きわ )めて有益である。 「常」のついた例には、「相見れば 常初花 ( とこはつはな )に、 情 ( こころ )ぐし眼ぐしもなしに」(巻十七・三九七八)、「その立山に、 常夏 ( とこなつ )に雪ふりしきて」(同・四〇〇〇)、「 白砥 ( しらと ) 掘 ( ほ )ふ 小新田 ( をにひた )山の 守 ( も )る山の 末 ( うら )枯れ 為無 ( せな )な 常葉 ( とこは )にもがも」(巻十四・三四三六)等がある。 十市皇女は大友皇子(弘文天皇)御妃として 葛野王 ( かどののおおきみ )を生んだが、 壬申乱 ( じんしんのらん )後大和に帰って居られた。 皇女は天武天皇七年夏四月天皇伊勢斎宮に行幸せられんとした最中に卒然として薨ぜられたから、この歌はそれより前で、恐らく、四年春二月参宮の時でもあろうか。 さびしい境遇に居られた皇女だから、老女が作ったこの祝福の歌もさびしい心を背景としたものとおもわねばならぬ。 「海人なれや」は疑問で、「海人だからであろうか」という意になる。 この歌はそれに感傷して 和 ( こた )えられた歌である。 自分は命を愛惜してこのように海浪に濡れつつ 伊良虞 ( いらご )島の玉藻を苅って食べている、というのである。 流人でも高貴の方だから実際海人のような業をせられなくとも、前の歌に「玉藻苅ります」といったから、「玉藻苅り食す」と云われたのである。 なお結句を古義ではタマモカリハムと訓み、新考(井上)もそれに従った。 この一首はあわれ深いひびきを持ち、特に、「うつせみの命ををしみ」の句に感慨の主点がある。 万葉の歌には、「わたつみの豊旗雲に」の如き歌もあるが、またこういう切実な感傷の歌もある。 悲しい声であるから、堂々とせずにヲシミ・ナミニヌレのあたりは、稍小きざみになっている。 「いのち」のある例は、「たまきはる命惜しけど、せむ 術 ( すべ )もなし」(巻五・八〇四)、「たまきはる命惜しけど、為むすべのたどきを知らに」(巻十七・三九六二)等である。 麻続王が 配流 ( はいる )されたという記録は、書紀には 因幡 ( いなば )とあり、常陸風土記には 行方郡板来 ( なめかたのこおりいたく )村としてあり、この歌によれば伊勢だから、配流地はまちまちである。 常陸の方は伝説化したものらしく、因幡・伊勢は配流の場処が途中変ったのだろうという説がある。 そうすれば説明が出来るが、万葉の歌の方は伊勢として味ってかまわない。 藤原宮は持統天皇の四年に高市皇子御視察、十二月天皇御視察、六年五月から造営をはじめ八年十二月に完成したから、恐らくは八年以後の御製で、宮殿から眺めたもうた光景ではなかろうかと拝察せられる。 一首の意は、春が過ぎて、もう夏が来たと見える。 天の香具山の辺には今日は一ぱい白い衣を干している、というのである。 「らし」というのは、推量だが、実際を目前にしつついう推量である。 「 来 ( きた )る」は 良 ( ら )行四段の動詞である。 「み冬つき春は 吉多礼登 ( キタレド )」(巻十七・三九〇一)「冬すぎて 暖来良思 ( ハルキタルラシ )」(巻十・一八四四)等の例がある。 この歌は、全体の声調は端厳とも謂うべきもので、第二句で、「来る らし」と切り、第四句で、「衣ほし たり」と切って、「らし」と「たり」で伊列の音を繰返し一種の節奏を得ているが、人麿の歌調のように鋭くゆらぐというのではなく、やはり女性にまします御語気と感得することが出来るのである。 そして、結句で「天の香具山」と名詞止めにしたのも一首を整正端厳にした。 天皇の御代には人麿・黒人をはじめ優れた歌人を出したが、天皇に此御製あるを拝誦すれば、決して偶然でないことが分かる。 この歌は、第二句ナツキニケラシ(旧訓)、古写本中ナツゾキヌラシ(元暦校本・類聚古集)であったのを、契沖がナツキタルラシと訓んだ。 第四句コロモサラセリ(旧訓)、古写本中、コロモホシタリ( 古葉略類聚抄 ( こようりゃくるいじゅうしょう ))、コロモホシタル(神田本)、コロモホステフ(細井本)等の訓があり、また、新古今集や小倉百人一首には、「春過ぎて夏来に けらし白妙の衣ほ すてふあまの香具山」として載っているが、これだけの僅かな差別で一首全体に大きい差別を来すことを知らねばならぬ。 現在鴨公村高殿の土壇に立って香具山の方を見渡すと、この御製の如何に実地的即ち写生的だかということが分かる。 真淵の万葉考に、「夏のはじめつ 比 ( ころ )、天皇 埴安 ( はにやす )の堤の上などに 幸 ( いでま )し給ふ時、かの家らに衣を 懸 ( かけ )ほして 有 ( ある )を見まして、実に夏の来たるらし、衣をほしたりと、見ますまに/\のたまへる御歌也。 夏は物打しめれば、万づの物ほすは常の事也。 さては余りに事かろしと思ふ後世心より、附そへごと多かれど皆わろし。 古への歌は言には風流なるも多かれど、心はただ打見打思ふがまゝにこそよめれ」と云ってあるのは名言だから引用しておく。 なお、埴安の池は、現在よりももっと西北で、別所の北に池尻という小字があるがあのあたりだかも知れない。 なお、橋本 直香 ( ただか )(私抄)は、香具山に登り給うての御歌と想像したが、併し御製は前言の如く、宮殿にての御吟詠であろう。 土屋文明氏は 明日香 ( あすか )の 浄御原 ( きよみはら )の宮から山の 陽 ( みなみ )の村里を御覧になられての御製と解した。 参考歌。 「ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春たつらしも」(巻十・一八一二)、「いにしへの事は知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山」(巻七・一〇九六)、「昨日こそ年は 極 ( は )てしか春霞春日の山にはや立ちにけり」(巻十・一八四三)、「筑波根に雪かも降らる否をかも 愛 ( かな )しき児ろが 布 ( にぬ )ほさるかも」(巻十四・三三五一)。 僻案抄 ( へきあんしょう )に、「只白衣を干したるを見そなはし給ひて詠給へる御歌と見るより外有べからず」といったのは素直な解釈であり、燈に、「春はと人のたのめ奉れる事ありしか。 又春のうちにと人に御ことよさし給ひし事のありけるが、それが 期 ( とき )を過ぎたりければ、その人をそゝのかし、その期おくれたるを 怨 ( うら )ませ給ふ御心なるべし」と云ったのは、 穿 ( うが )ち過ぎた解釈で甚だ悪いものである。 こういう態度で古歌に対するならば、一首といえども正しい鑑賞は出来ない。 大津宮(志賀宮)の址は、現在の大津市南滋賀町あたりだろうという説が有力で、近江の都の範囲は、其処から南へも延び、西は比叡山麓、東は湖畔 迄 ( まで )至っていたもののようである。 此歌は持統三年頃、人麿二十七歳ぐらいの作と想像している。 「ささなみ」(楽浪)は近江滋賀郡から高島郡にかけ湖西一帯の地をひろく称した地名であるが、この頃には既に形式化せられている。 一首は、 楽浪 ( ささなみ )の志賀の辛崎は元の如く何の 変 ( かわり )はないが、大宮所も荒れ果てたし、むかし船遊をした大宮人も居なくなった。 それゆえ、志賀の辛崎が、大宮人の船を幾ら待っていても待ち 甲斐 ( がい )が無い、というのである。 「 幸 ( さき )くあれど」は、平安無事で何の変はないけれどということだが、非情の辛崎をば、幾らか人間的に云ったものである。 「船待ちかねつ」は、幾ら待っていても駄目だというのだから、これも人間的に云っている。 歌調からいえば、第三句は字余りで、結句は四三調に 緊 ( し )まっている。 全体が切実沈痛で、一点浮華の気をとどめて居らぬ。 現代の吾等は、擬人法らしい表現に、 陳腐 ( ちんぷ )を感じたり、反感を持ったりすることを止めて、一首全体の態度なり 気魄 ( きはく )なりに同化せんことを努むべきである。 作は人麿としては初期のものらしいが、既にかくの如く円熟して居る。 大津の京に関係あった湖水の一部の、大曲の水が現在、人待ち顔に淀んでいる趣である。 然るに、「オホワダ」をば 大海 ( おおわだ )即ち近江の湖水全体と解し、湖の水が 勢多 ( せた )から宇治に流れているのを、それが停滞して流れなくなるとも、というのが、即ち「ヨドムトモ」であると仮定的に解釈する説(燈)があるが、それは通俗 理窟 ( りくつ )で、人麿の歌にはそういう通俗理窟で解けない歌句が間々あることを知らねばならぬ。 ここの「淀むとも」には現在の実感がもっと 活 ( い )きているのである。 この歌も感慨を籠めたもので、寧ろ主観的な歌である。 前の歌の第三句に、「幸くあれど」とあったごとく、この歌の第三句にも、「淀むとも」とある、そこに感慨が籠められ、小休止があるようになるのだが、こういう云い方には、ややともすると一首を弱くする危険が潜むものである。 然るに人麿の歌は前の歌もこの歌も、「船待ちかねつ」、「またも逢はめやも」と強く結んで、全体を統一しているのは実に驚くべきで、この力量は人麿の作歌の 真率 ( しんそつ )的な態度に本づくものと自分は解して居る。 人麿は初期から 斯 ( こ )ういう優れた歌を作っている。 然るに古人の伝不明で、題詞の下に或書云 高市連黒人 ( たけちのむらじくろひと )と注せられているので、黒人の作として味う人が多い。 「いにしへの人にわれあれや」は、当今の普通人ならば旧都の 址 ( あと )を見てもこんなに悲しまぬであろうが、こんなに悲しいのは、古の世の人だからであろうかと、疑うが如くに感傷したのである。 この主観句は、相当によいので棄て難いところがある。 なお、巻三(三〇五)に、高市連黒人の、「 斯 ( か )くゆゑに見じといふものを 楽浪 ( ささなみ )の旧き都を見せつつもとな」があって、やはり上の句が主観的である。 けれども、此等の主観句は、切実なるが如くにして切実に響かないのは何故であるか。 これは人麿ほどの心熱が無いということにもなるのである。 持統天皇の吉野行幸は前後三十二回(御在位中三十一回御譲位後一回)であるが、万葉集年表(土屋文明氏)では、五年春夏の 交 ( こう )だろうと云っている。 さすれば人麿の想像年齢二十九歳位であろうか。 一首の意は、山の神( 山祇 ( やまつみ ))も川の神( 河伯 ( かわのかみ ))も、もろ共に寄り来って仕え奉る、 現神 ( あきつがみ )として神そのままに、わが天皇は、この吉野の川の 滝 ( たぎ )の 河内 ( かふち )に、群臣と共に船出したもう、というのである。 「 滝 ( たぎ )つ 河内 ( かふち )」は、今の 宮滝 ( みやたき )附近の吉野川で、水が強く廻流している地勢である。 人麿は此歌を作るのに、謹んで緊張しているから、自然歌調も大きく荘厳なものになった。 上半は形式的に響くが、人麿自身にとっては本気で全身的であった。 そして、「滝つ河内」という現実をも 免 ( のが )していないものである。 一首の諧調音を分析すれば不思議にも加行の開口音があったりして、種々勉強になる歌である。 先師伊藤左千夫先生は、「神も人も相和して遊ぶ尊き御代の有様である」(万葉集新釈)と評せられたが、まさしく其通りである。 第二句、原文「因而奉流」をヨリテ・ツカフルと訓んだが、ヨリテ・マツレルという訓もある。 併しマツレルでは 調 ( しらべ )が悪い。 結句、原文、「船出為加母」は、フナデ・セスカモと敬語に訓んだのもある。 補記、近時土屋文明氏は「滝つ河内」はもっと下流の、 下市 ( しもいち )町を中心とした越部、六田あたりだろうと考証した。 初句、原文「嗚呼見浦爾」だから、アミノウラニと訓むべきである。 併し史実上で、 阿胡行宮 ( あごのかりみや )云々とあるし、志摩に 英虞郡 ( あごのこおり )があり、巻十五(三六一〇)の古歌というのが、「 安胡乃宇良 ( アゴノウラ )」だから、恐らく人麿の原作はアゴノウラで、万葉巻一のアミノウラは異伝の一つであろう。 一首は、天皇に 供奉 ( ぐぶ )して行った多くの若い女官たちが、阿虞の浦で船に乗って遊楽する、その時にあの女官等の裳の裾が海潮に 濡 ( ぬ )れるであろう、というのである。 行幸は、三月六日(陽暦三月三十一日)から三月二十日(陽暦四月十四日)まで続いたのだから、海浜で遊楽するのに適当な季節であり、若く美しい女官等が大和の山地から海浜に来て珍しがって遊ぶさまが目に見えるようである。 そういう朗かで美しく楽しい歌である。 然 ( し )かも一首に「らむ」という助動詞を二つも使って、流動的歌調を 成就 ( じょうじゅ )しているあたり、やはり人麿一流と 謂 ( い )わねばならない。 「玉裳」は美しい裳ぐらいに取ればよく、一首に親しい感情の出ているのは、女官中に人麿の恋人もいたためだろうと想像する向もある。 「 伊良虞 ( いらご )の島」は、三河 渥美 ( あつみ )郡の伊良虞崎あたりで、「島」といっても崎でもよいこと、後出の「加古の島」のところにも応用することが出来る。 一首は、潮が満ちて来て鳴りさわぐ頃、伊良虞の島近く 榜 ( こ )ぐ船に、供奉してまいった自分の女も乗ることだろう。 あの浪の荒い島のあたりを、というのである。 この歌には、明かに「妹」とあるから、こまやかな情味があって 余所余所 ( よそよそ )しくない。 そして、この「妹乗るらむか」という一句が一首を統一してその中心をなしている。 船に慣れないことに同情してその難儀をおもいやるに、ただ、「妹乗るらむか」とだけ云っている、そして、結句の、「荒き島回を」に応接せしめている。 或は伊勢行幸にでも 扈従 ( こじゅう )して行った夫を 偲 ( しの )んだものかも知れない。 名張山は伊賀名張郡の山で伊勢へ越ゆる道筋である。 「奥つ藻の」は名張へかかる枕詞で、奥つ藻は奥深く隠れている藻だから、カクルと同義の語ナバル(ナマル)に懸けたものである。 一首の意は、夫はいま何処を歩いていられるだろうか。 今日ごろは多分名張の山あたりを越えていられるだろうか、というので、一首中に「らむ」が二つ第二句と結句とに置かれて調子を取っている。 この「らむ」は、「朝踏ますらむ」あたりよりも稍軽快である。 この歌は古来秀歌として鑑賞せられたのは万葉集の歌としては分かり好く口調も好いからであったが、そこに特色もあり、消極的方面もまたそこにあると謂っていいであろうか。 併しそれでも古今集以下の歌などと違って、厚みのあるところ、名張山という現実を持って来たところ等に注意すべきである。 この歌は、巻四(五一一)に重出しているし、又集中、「後れゐて吾が恋ひ居れば 白雲 ( しらくも )の棚引く山を今日か越ゆらむ」(巻九・一六八一)、「たまがつま島熊山の夕暮にひとりか君が山路越ゆらむ」(巻十二・三一九三)、「 息 ( いき )の 緒 ( を )に吾が 思 ( も )ふ君は 鶏 ( とり )が鳴く 東 ( あづま )の坂を今日か越ゆらむ」(同・三一九四)等、結句の同じものがあるのは注意すべきである。 その時人麿の作った短歌四首あるが、その第一首である。 軽皇子( 文武 ( もんむ )天皇)の御即位は持統十一年であるから、此歌はそれ以前、恐らく持統六、七年あたりではなかろうか。 一首は、阿騎の野に今夜旅寝をする人々は、昔の事がいろいろ思い出されて、安らかに眠りがたい、というのである。 「うち靡き」は人の寝る時の体の形容であるが、今は形式化せられている。 「やも」は反語で、強く云って感慨を籠めている。 「旅人」は複数で、軽皇子を主とし、従者の人々、その中に人麿自身も居るのである。 この歌は響に句々の揺ぎがあり、単純に過ぎてしまわないため、余韻おのずからにして長いということになる。 一首の意は、阿騎野にやどった翌朝、日出前の東天に既に暁の光がみなぎり、それが雪の降った阿騎野にも映って見える。 その時西の方をふりかえると、もう月が落ちかかっている、というのである。 この歌は前の歌にあるような、「古へおもふに」などの句は無いが、全体としてそういう感情が奥にかくれているもののようである。 そういう気持があるために、「かへりみすれば月かたぶきぬ」の句も 利 ( き )くので、先師伊藤左千夫が評したように、「稚気を脱せず」というのは、 稍 ( やや )酷ではあるまいか。 人麿は斯く見、斯く感じて、詠歎し写生しているのであるが、それが即ち犯すべからざる大きな歌を得る 所以 ( ゆえん )となった。 「野に・かぎろひの」のところは 所謂 ( いわゆる )、句割れであるし、「て」、「ば」などの助詞で続けて行くときに、たるむ 虞 ( おそれ )のあるものだが、それをたるませずに、却って一種 渾沌 ( こんとん )の調を成就しているのは偉いとおもう。 それから人麿は、第三句で小休止を置いて、第四句から起す手法の 傾 ( かたむき )を 有 ( も )っている。 そこで、伊藤左千夫が、「かへり見すれば」を、「俳優の身振めいて」と評したのは稍見当の違った感がある。 此歌は、訓がこれまで定まるのに、相当の経過があり、「 東野 ( あづまの )のけぶりの立てるところ見て」などと訓んでいたのを、契沖、真淵等の力で此処まで到達したので、後進の吾等はそれを忘却してはならぬのである。 守部此歌を評して、「一夜やどりたる曠野のあかつきがたのけしき、めに見ゆるやうなり。 此かぎろひは旭日の余光をいへるなり」(緊要)といった。 一首は、いよいよ御猟をすべき日になった。 御なつかしい日並皇子尊が御生前に群馬を走らせ御猟をなされたその時のように、いよいよ御猟をすべき時になった、というのである。 この歌も余り細部にこだわらずに、おおように歌っているが、ただの腕まかせでなく、丁寧にして真率な作である。 総じて人麿の作は重厚で、軽薄の音調の無きを特色とするのは、応詔、献歌の場合が多いからというためのみでなく、どんな場合でもそうであるのを、後進の歌人は見のがしてはならない。 それから、結句の、「来向ふ」というようなものでも人麿造語の一つだと謂っていい。 「今年経て来向ふ夏は」「春過ぎて夏来向へば」(巻十九・四一八三・四一八〇)等の家持の用例があるが、これは人麿の、「時は来向ふ」を学んだものである。 人麿以後の万葉歌人等で人麿を学んだ者が一人二人にとどまらない。 言葉を換えていえば人麿は万葉集に於て最もその真価を認められたものである。 後世人麿を「歌聖」だの何のと騒いだが、 上 ( うわ )の空の偶像礼拝に過ぎぬ。 遷都は持統八年十二月であるから、それ以後の御作だということになる。 一首は、明日香に来て見れば、既に都も遠くに 遷 ( うつ )り、都であるなら美しい采女等の袖をも 飜 ( ひるがえ )す明日香風も、今は空しく吹いている、というぐらいに取ればいい。 「明日香風」というのは、明日香の地を吹く風の意で、 泊瀬 ( はつせ )風、 佐保 ( さほ )風、 伊香保 ( いかほ )風等の例があり、上代日本語の一特色を示している。 今は京址となって 寂 ( さび )れた明日香に来て、その感慨をあらわすに、采女等の袖ふりはえて歩いていた有様を聯想して歌っているし、それを明日香風に集注せしめているのは、意識的に作歌を工夫するのならば捉えどころということになるのであろうが、当時は感動を主とするから自然にこうなったものであろう。 采女の事などを主にするから 甘 ( あま )くなるかというに決してそうでなく、皇子一流の精厳ともいうべき歌調に統一せられている。 ただ、「袖ふきかへす」を主な感じとした点に、心のすえ方の危険が潜んでいるといわばいい得るかも知れない。 この、「袖ふきかへす」という句につき、「袖ふきかへしし」と過去にいうべきだという説もあったが、ここは 楽 ( らく )に解釈して好い。 初句は旧訓タヲヤメノ。 拾穂抄タハレメノ。 僻案抄ミヤヒメノ。 考タワヤメノ。 古義ヲトメノ等の訓がある。 古鈔本中 元暦 ( げんりゃく )校本に朱書で或ウネメノとあるに従って訓んだが、なおオホヤメノ(神)タオヤメノ(文)の訓もあるから、旧訓或は考の訓によって味うことも出来る。 つまり、「 采女 ( ウネメ )は官女の称なるを義を以てタヲヤメに借りたるなり」(美夫君志)という説を全然否定しないのである。 いずれにしても初句の四音ウネメノは稍不安であるから、どうしてもウネメと訓まねばならぬなら、或はウネメラノとラを入れてはどうか知らん。 引馬野は遠江 敷智 ( ふち )郡(今浜名郡)浜松附近の野で、 三方原 ( みかたがはら )の南寄に 曳馬 ( ひくま )村があるから、其辺だろうと解釈して来たが、近時三河 宝飯 ( ほい )郡 御津 ( みと )町附近だろうという説(今泉忠男氏、久松潜一氏)が有力となった。 「 榛原 ( はりはら )」は 萩原 ( はぎはら )だと解せられている。 一首の意は、引馬野に咲きにおうて居る榛原(萩原)のなかに入って逍遙しつつ、此処まで旅し来った記念に、萩の花を衣に薫染せしめなさい、というのであろう。 右の如くに解して、「草枕旅ゆく人も行き触ればにほひぬべくも咲ける 芽子 ( はぎ )かも」(巻八・一五三二)の歌の如く、衣に薫染せしめる事としたのであるが、 続日本紀 ( しょくにほんぎ )に 拠 ( よ )るに行幸は十月十日(陽暦十一月八日)から十一月二十五日(陽暦十二月二十二日)にかけてであるから、大方の萩の花は散ってしまっている。 ここで、「榛原」は萩でなしに、 榛 ( はん )の木原で、その実を 煎 ( せん )じて黒染(黄染)にする、その事を「衣にほはせ」というのだとする説が起って、目下その説が有力のようであるが、榛の実の黒染のことだとすると、「入りみだり衣にほはせ」という句にふさわしくない。 そこで若し榛原は萩原で、其頃萩の花が既に過ぎてしまったとすると、萩の花でなくて萩の 黄葉 ( もみじ )であるのかも知れない。 (土屋文明氏も、萩の花ならそれでもよいが、榛の黄葉、乃至は雑木の黄葉であるかも知れぬと云っている。 )萩の黄葉は極めて鮮かに美しいものだから、その美しい黄葉の中に入り浸って衣を薫染せしめる気持だとも解釈し得るのである。 つまり実際に 摺染 ( すりぞめ )せずに薫染するような気持と解するのである。 また、榛は 新撰字鏡 ( しんせんじきょう )に、叢生曰 レ榛とあるから、灌木の藪をいうことで、それならばやはり 黄葉 ( もみじ )の心持である。 いずれにしても、 榛 ( はん )の木ならば、「にほふはりはら」という気持ではない。 この「にほふ」につき、必ずしも花でなくともいいという説は既に 荷田春満 ( かだのあずままろ )が云っている。 「にほふといふこと、〔葉〕花にかぎりていふにあらず、色をいふ詞なれば、花過ても匂ふ萩原といふべし」(僻案抄)。 そして榛の実の黒染説は、続日本紀の十月十一月という記事があるために可能なので、この記事さへ顧慮しないならば、萩の花として素直に鑑賞の出来る歌なのである。 また続日本紀の記載も絶対的だともいえないことがあるかも知れない。 そういうことは少し 我儘 ( わがまま )過ぎる解釈であろうが、差し当ってはそういう我儘をも許容し得るのである。 さて、そうして置いて、萩の花を以て衣を薫染せしめることに定めてしまえば、此の歌の自然で且つ透明とも謂うべき快い声調に接することが出来、一首の中に「にほふ」、「にほはせ」があっても、邪魔を感ぜずに 受納 ( うけい )れることも出来るのである。 次に近時、「乱」字を四段の自動詞に活用せしめた例が万葉に無いとして「入り乱れ」と訓んだ説(沢瀉氏)があるが、既に「みだりに」という副詞がある以上、四段の自動詞として認容していいとおもったのである。 且つ、「いりみだり」の方が響としてはよいのである。 次に、この歌は引馬野にいて詠んだものだろうと思うのに、京に残っていて供奉の人を送った作とする説(武田氏)がある。 即ち、武田博士は、「作者はこの御幸には留守をしてゐたので、御供に行く人に与へた作である。 多分、御幸が決定し、御供に行く人々も定められた準備時代の作であらう。 御幸先の秋の景色を想像してゐる。 よい作である。 作者がお供をして詠んだとなす説はいけない」(総釈)と云うが、これは陰暦十月十日以後に萩が無いということを前提とした想像説である。 そして、 真淵 ( まぶち )の如きも、「又思ふに、幸の時は、近き国の民をめし 課 ( オフス )る事紀にも見ゆ、然れば 前 ( さき )だちて八九月の 比 ( ころ )より遠江へもいたれる官人此野を過る時よみしも知がたし」(考)という想像説を既に作っているのである。 共に、同じく想像説ならば、真淵の想像説の方が、歌を味ううえでは適切である。 この歌はどうしても属目の感じで、想像の歌ではなかろうと思うからである。 私 ( ひそ )かにおもうに、此歌はやはり行幸に供奉して三河の現地で詠んだ歌であろう。 そして少くも其年は萩がいまだ咲いていたのであろう。 気温の事は現在を以て当時の事を軽々に論断出来ないので、即ち僻案抄に、「なべては十月には花も過葉もかれにつゝ(く?)萩の、此引馬野には花も残り葉もうるはしくてにほふが故に、かくよめりと見るとも 難有 ( なんある )べからず。 草木は気運により、例にたがひ、土地により、遅速有こと常のことなり」とあり、考にも、「此幸は十月なれど遠江はよに暖かにて十月に此花にほふとしも多かり」とあるとおりであろう。 私は、昭和十年十一月すえに伊香保温泉で木萩の咲いて居るのを見た。 其の時伊香保の山には既に雪が降っていた。 また大宝二年の行幸は、尾張・美濃・伊勢・伊賀を経て京師に還幸になったのは十一月二十五日であるのを見れば、恐らくその年はそう寒くなかったのかも知れないのである。 また、「古にありけむ人のもとめつつ衣に摺りけむ真野の榛原」(巻七・一一六六)、「白菅の真野の榛原心ゆもおもはぬ吾し 衣 ( ころも )に 摺 ( す )りつ」(同・一三五四)、「住吉の岸野の榛に 染 ( にほ )ふれど 染 ( にほ )はぬ我やにほひて居らむ」(巻十六・三八〇一)、「思ふ子が衣摺らむに匂ひこせ島の榛原秋立たずとも」(巻十・一九六五)等の、衣摺るは、萩花の 摺染 ( すりぞめ )ならば直ぐに出来るが、ハンの実を煎じて黒染にするのならば、さう簡単には出来ない。 もっとも、攷證では、「この榛摺は木の皮をもてすれるなるべし」とあるが、これでも技術的で、この歌にふさわしくない。 そこでこの二首の「榛」はハギの花であって、ハンの実でないとおもうのである。 なお、「引き 攀 ( よ )ぢて折らば散るべみ梅の花袖に 扱入 ( こき )れつ 染 ( し )まば 染 ( し )むとも」(巻八・一六四四)、「藤浪の花なつかしみ、引よぢて袖に 扱入 ( こき )れつ、 染 ( し )まば 染 ( し )むとも」(巻十九・四一九二)等も、薫染の趣で、必ずしも摺染めにすることではない。 つまり「衣にほはせ」の気持である。 なお、榛はハギかハンかという問題で、「いざ子ども大和へはやく白菅の真野の榛原手折りてゆかむ」(巻三・二八〇)の中の、「手折りてゆかむ」はハギには適当だが、ハンには不適当である。 その次の歌、「白菅の真野の榛原ゆくさ来さ君こそ見らめ真野の榛原」(同・二八一)もやはりハギの気持である。 以上を 綜合 ( そうごう )して、「引馬野ににほふ榛原」も萩の花で、現地にのぞんでの歌と結論したのであった。 以上は結果から見れば皆新しい説を排して 旧 ( ふる )い説に従ったこととなる。 黒人の伝は 審 ( つまびらか )でないが、持統文武両朝に仕えたから、大体柿本人麿と同時代である。 「 船泊 ( ふなはて )」は此処では名詞にして使っている。 「安礼の埼」は 参河 ( みかわ )国の埼であろうが現在の 何処 ( どこ )にあたるか未だ審でない。 ( 新居 ( あらい )崎だろうという説もあり、また近時、今泉氏、ついで久松氏は 御津 ( みと )附近の岬だろうと考証した。 )「棚無し小舟」は、舟の左右の 舷 ( げん )に渡した 旁板 ( わきいた )( )を 舟棚 ( ふなたな )というから、その舟棚の無い小さい舟をいう。 一首の意は、今、参河の 安礼 ( あれ )の 埼 ( さき )のところを 漕 ( こ )ぎめぐって行った、あの 舟棚 ( ふなたな )の無い小さい舟は、いったい何処に 泊 ( とま )るのか知らん、というのである。 この歌は旅中の歌だから、他の旅の歌同様、寂しい気持と、家郷(妻)をおもう気持と 相纏 ( あいまつわ )っているのであるが、この歌は客観的な写生をおろそかにしていない。 そして、安礼の埼といい、棚無し小舟といい、きちんと出すものは出して、そして、「何処にか船泊すらむ」と感慨を漏らしているところにその特色がある。 歌調は人麿ほど大きくなく、「すらむ」などといっても、人麿のものほど流動的ではない。 結句の、「棚無し小舟」の如き、四三調の名詞止めのあたりは、すっきりと緊縮させる手法である。 憶良は文武天皇の大宝元年、遣唐大使 粟田真人 ( あわたのまひと )に少録として従い入唐し、慶雲元年秋七月に帰朝したから、この歌は帰りの出帆近いころに作ったもののようである。 「大伴」は難波の辺一帯の地域の名で、もと大伴氏の領地であったからであろう。 「大伴の高師の浜の松が根を」(巻一・六六)とあるのも、大伴の地にある高師の浜というのである。 「御津」は難波の 湊 ( みなと )のことである。 そしてもっとくわしくいえば難波津よりも住吉津即ち堺であろうといわれている。 一首の意は、さあ皆のものどもよ、早く日本へ帰ろう、大伴の御津の浜のあの松原も、吾々を待ちこがれているだろうから、というのである。 やはり憶良の歌に、「大伴の御津の松原かき掃きて 吾 ( われ )立ち待たむ早帰りませ」(巻五・八九五)があり、なお、「朝なぎに 真楫 ( まかぢ ) 榜 ( こ )ぎ出て見つつ来し御津の松原浪越しに見ゆ」(巻七・一一八五)があるから、大きい松原のあったことが分かる。 「いざ子ども」は、部下や年少の者等に対して親しんでいう言葉で、既に古事記応神巻に、「いざ児ども 野蒜 ( ぬびる )つみに 蒜 ( ひる )つみに」とあるし、万葉の、「いざ子ども大和へ早く白菅の 真野 ( まぬ )の 榛原 ( はりはら )手折りて行かむ」(巻三・二八〇)は、高市黒人の歌だから憶良の歌に前行している。 「白露を取らば消ぬべしいざ子ども露に 競 ( きほ )ひて萩の遊びせむ」(巻十・二一七三)もまたそうである。 「いざ児ども 香椎 ( かしひ )の 潟 ( かた )に白妙の袖さへぬれて朝菜 採 ( つ )みてむ」(巻六・九五七)は旅人の歌で憶良のよりも後れている。 つまり、旅人が憶良の影響を受けたのかも知れぬ。 この歌は、環境が唐の国であるから、自然にその気持も一首に反映し、そういう点で規模の大きい歌だと謂うべきである。 下の句の歌調は稍 弛 ( たる )んで弱いのが欠点で、これは他のところでも一言触れて置いたごとく、憶良は漢学に達していたため、却って日本語の伝統的な声調を理会することが出来なかったのかも知れない。 一首としてはもう一歩緊密な度合の声調を要求しているのである。 後年、天平八年の遣新羅国使等の作ったものの中に、「ぬばたまの 夜明 ( よあか )しも船は 榜 ( こ )ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ」(巻十五・三七二一)、「大伴の御津の 泊 ( とまり )に船 泊 ( は )てて立田の山を何時か越え 往 ( い )かむ」(同・三七二二)とあるのは、この憶良の歌の模倣である。 なお、 大伴坂上郎女 ( おおとものさかのうえのいらつめ )の歌に、「ひさかたの天の露霜置きにけり 宅 ( いへ )なる人も待ち恋ひぬらむ」(巻四・六五一)というのがあり、これも憶良の歌の影響があるのかも知れぬ。 斯くの如く憶良の歌は当時の人々に尊敬せられたのは、恐らく彼は漢学者であったのみならず、歌の方でもその学者であったからだとおもうが、そのあたりの歌は、一般に分かり好くなり、常識的に合理化した声調となったためとも解釈することが出来る。 即ち憶良のこの歌の如きは、細かい 顫動 ( せんどう )が足りない、而してたるんでいるところのあるものである。 難波宮のあったところは現在明かでない。 難波の地に旅して、そこの葦原に飛びわたる鴨の 翼 ( はね )に、霜降るほどの寒い夜には、大和の家郷がおもい出されてならない。 鴨でも共寝をするのにという意も含まれている。 「葦べ行く鴨」という句は、葦べを飛びわたる字面であるが、一般に葦べに住む鴨の意としてもかまわぬだろう。 「葦べゆく鴨の羽音のおとのみに」(巻十二・三〇九〇)、「葦べ行く雁の 翅 ( つばさ )を見るごとに」(巻十三・三三四五)、「鴨すらも 己 ( おの )が妻どちあさりして」(巻十二・三〇九一)等の例があり、参考とするに足る。 志貴皇子の御歌は、その他のもそうであるが、歌調明快でありながら、感動が常識的粗雑に陥るということがない。 この歌でも、鴨の 羽交 ( はがい )に霜が置くというのは現実の細かい写実といおうよりは一つの「感」で運んでいるが、その「感」は 空漠 ( くうばく )たるものでなしに、人間の観察が本となっている点に強みがある。 そこで、「霜ふりて」と断定した表現が利くのである。 「葦べ行く」という句にしても 稍 ( やや )ぼんやりしたところがあるけれども、それでも全体としての写象はただのぼんやりではない。 集中には、「 埼玉 ( さきたま )の小埼の沼に鴨ぞ 翼 ( はね )きる己が尾に 零 ( ふ )り置ける霜を払ふとならし」(巻九・一七四四)、「天飛ぶや雁の 翅 ( つばさ )の 覆羽 ( おほひは )の 何処 ( いづく )もりてか霜の降りけむ」(巻十・二二三八)、「押し照る難波ほり江の葦べには雁 宿 ( ね )たるかも霜の 零 ( ふ )らくに」(同・二一三五)等の歌がある。 この歌の「と」の用法につき、あられ松原 と弟日娘 と両方とも見れど飽きないと解く説もある。 娘は 遊行女婦 ( うかれめ )であったろうから、美しかったものであろう。 初句の、「あられうつ」は、下の「あられ」に懸けた枕詞で、皇子の造語と 看做 ( みな )していい。 一首は、よい気持になられての即興であろうが、不思議にも軽浮に艶めいたものがなく、寧ろ 勁健 ( けいけん )とも 謂 ( い )うべき歌調である。 これは日本語そのものがこういう高級なものであったと解釈することも可能なので、自分はその一代表のつもりで此歌を選んで置いた。 「見れど飽かぬかも」の句は万葉に用例がなかなか多い。 「 若狭 ( わかさ )なる三方の海の浜 清 ( きよ )みい往き還らひ見れど飽かぬかも」(巻七・一一七七)、「百伝ふ 八十 ( やそ )の 島廻 ( しまみ )を 榜 ( こ )ぎ来れど粟の小島し見れど飽かぬかも」(巻九・一七一一)、「白露を玉になしたる 九月 ( ながつき )のありあけの 月夜 ( つくよ )見れど飽かぬかも」(巻十・二二二九)等、ほか十五、六の例がある。 これも写生によって配合すれば現代に活かすことが出来る。 この歌の近くに、 清江娘子 ( すみのえのおとめ )という者が長皇子に 進 ( たてまつ )った、「草枕旅行く君と知らませば 岸 ( きし )の 埴土 ( はにふ )ににほはさましを」(巻一・六九)という歌がある。 この清江娘子は 弟日娘子 ( おとひおとめ )だろうという説があるが、或は娘子は一人のみではなかったのかも知れない。 住吉の岸の黄土で衣を美しく 摺 ( す )って記念とする趣である。 「旅ゆく」はいよいよ京へお帰りになることで、名残を惜しむのである。 情緒が 纏綿 ( てんめん )としているのは、必ずしも職業的にのみこの 媚態 ( びたい )を示すのではなかったであろう。 またこれを万葉巻第一に選び載せた態度もこだわりなくて 円融 ( えんゆう )とも称すべきものである。 呼子鳥はカッコウかホトトギスか、或は両者ともにそう云われたか、未だ定説が無いが、カッコウ(閑古鳥)を呼子鳥と云った場合が最も多いようである。 「象の中山」は吉野離宮のあった宮滝の南にある山である。 象 ( きさ )という土地の中にある山の意であろう。 「来らむ」は「行くらむ」という意に同じであるが、 彼方 ( かなた )(大和)を主として云っている(山田博士の説)。 従って大和に親しみがあるのである。 一首の意。 (今吉野の離宮に供奉して来ていると、)呼子鳥が象の山のところを呼び鳴きつつ越えて居る。 多分大和の京(藤原京)の方へ鳴いて行くのであろう。 (家郷のことがおもい出されるという意を含んでいる。 ) 呼子鳥であるから、「呼びぞ」と云ったし、また、ただ「鳴く」といおうよりも、その方が適切な場合もあるのである。 而してこの歌には「鳴く」という語も入っているから、この「鳴きてか」の方は稍間接的、「呼びぞ」の方が現在の状態で作者にも直接なものであっただろう。 「大和には」の「に」は 方嚮 ( ほうこう )で、「は」は詠歎の分子ある助詞である。 この歌を誦しているうちに優れているものを感ずるのは、恐らく全体が具象的で現実的であるからであろう。 そしてそれに伴う声調の響が稍渋りつつ平俗でない点にあるだろう。 初句の「には」と第二句の「らむ」と結句の「なる」のところに感慨が籠って居て、第三句の「呼子鳥」は文法的には下の方に附くが、上にも下にも附くものとして鑑賞していい。 高市黒人は万葉でも優れた歌人の一人だが、その黒人の歌の中でも佳作の一つであるとおもう。 普通ならば「行くらむ」というところを、「来らむ」というに就いて、「行くらむ」は対象物が自分から離れる気持、「来らむ」は自分に接近する気持であるから、自分を藤原京の方にいるように瞬間見立てれば、吉野の方から鳴きつつ来る意にとり、「来らむ」でも差支がないこととなり、古来その解釈が多い。 代匠記に、「本来の住所なれば、我方にしてかくは云也」と解し、古義に「おのが恋しく思ふ京師 辺 ( アタリ )には、今鳴きて来らむかと、京師を内にしていへるなり」と解したのは、作者の位置を一瞬藤原京の内に置いた気持に解したのである。 けれどもこの解は、大和を内とするというところに「鳴きてか来らむ」の解に無理がある。 然るに、山田博士に拠ると越中地方では、彼方を主とする時に「来る」というそうであるから、大和(藤原京)を主として、其処に呼子鳥が確かに行くということをいいあらわすときには、「呼子鳥が大和京へ来る」ということになる。 「大和には啼きてか来らむ 霍公鳥 ( ほととぎす )汝が啼く毎に亡き人おもほゆ」(巻十・一九五六)という歌の、「啼きてか来らむ」も、大和の方へ行くだろうというので、大和の方へ親しんで啼いて行く意となる。 なお、「吾が恋を 夫 ( つま )は知れるを行く船の過ぎて 来 ( く )べしや 言 ( こと )も告げなむ」(巻十・一九九八)の「来べしや」も「行くべしや」の意、「霞ゐる富士の 山傍 ( やまび )に我が 来 ( き )なば 何方 ( いづち )向きてか妹が嘆かむ」(巻十四・三三五七)の、「我が来なば」も、「我が行かば」という意になるのである。 「はたや」は、「またも」に似てそれよりも詠歎が強い。 この歌は、何の妙も無く、ただ順直にいい下しているのだが、情の純なるがために人の心を動かすに足るのである。 この種の声調のものは分かり易いために、模倣歌を出だし、遂に平凡になってしまうのだが、併しそのために此歌の価値の下落することがない。 その当時は名は著しくない従駕の人でも、このくらいの歌を作ったのは実に驚くべきである。 「ながらふるつま吹く風の寒き夜にわが背の君はひとりか 寝 ( ね )らむ」(巻一・五九)も選出したのであったが、歌数の制限のために、此処に附記するにとどめた。 寧楽 ( なら )宮遷都は和銅三年だから、和銅元年には天皇はいまだ藤原宮においでになった。 即ち和銅元年は御即位になった年である。 一首の意は、兵士等の鞆の音が今しきりにしている。 将軍が兵の調練をして居ると見えるが、何か事でもあるのであろうか、というのである。 「鞆」は皮製の円形のもので、左の 肘 ( ひじ )につけて弓を射たときの弓弦の反動を受ける、その時に音がするので多勢のおこすその鞆の音が女帝の御耳に達したものであろう。 「もののふの 大臣 ( おほまへつぎみ )」は軍を 統 ( す )べる将軍のことで、続紀に、和銅二年に 蝦夷 ( えみし )を討った将軍は、 巨勢麿 ( こせのまろ )、 佐伯石湯 ( さへきのいわゆ )だから、御製の将軍もこの二人だろうといわれている。 「楯たつ」は、楯は手楯でなくもっと大きく堅固なもので、それを立てならべること、即ち軍陣の調練をすることとなるのである。 どうしてこういうことを仰せられたか。 これは軍の調練の音をお聞きになって、御心配になられたのであった。 考に、「さて此御時みちのく越後の 蝦夷 ( エミシ )らが 叛 ( ソム )きぬれば、うての使を遣さる、その 御軍 ( みいくさ )の手ならしを京にてあるに、鼓吹のこゑ鞆の音など(弓弦のともにあたりて鳴音也)かしかましきを聞し召て、御位の初めに 事有 ( ことある )をなげきおもほす御心より、かくはよみませしなるべし。 此 大御哥 ( おほみうた )にさる事までは聞えねど、次の御こたへ哥と合せてしるき也」とある。 御答歌というのは、 御名部皇女 ( みなべのひめみこ )で、皇女は天皇の御姉にあたらせられる。 「吾が 大王 ( おほきみ )ものな思ほし 皇神 ( すめかみ )の 嗣 ( つ )ぎて賜へる吾無けなくに」(巻一・七七)という御答歌で、陛下よどうぞ御心配あそばすな、わたくしも皇祖神の命により、いつでも御名代になれますものでございますから、というので、「吾」は皇女御自身をさす。 御製歌といい御答歌といい、まことに緊張した境界で、恋愛歌などとは違った大きなところを感得しうるのである。 個人を超えた集団、国家的の緊張した心の世界である。 御製歌のすぐれておいでになるのは申すもかしこいが、御姉君にあらせられる皇女が、御妹君にあらせらるる天皇に、かくの如き御歌を奉られたというのは、後代の吾等拝誦してまさに感涙を流さねばならぬほどのものである。 御妹君におむかい、「吾が大王ものな思ほし」といわれるのは、御妹君は一天万乗の 現神 ( あきつかみ )の天皇にましますからである。 その時の歌であるが作者の名を明記してない。 併 ( しか )し作者は皇子・皇女にあらせられる御方のようで、天皇の御姉、 御名部皇女 ( みなべのひめみこ )(天智天皇皇女、元明天皇御姉)の御歌と推測するのが真に近いようである。 「飛ぶ鳥の」は「 明日香 ( あすか )」にかかる枕詞。 明日香(飛鳥)といって、なぜ藤原といわなかったかというに、明日香はあの辺の総名で、必ずしも 飛鳥浄御原宮 ( あすかのきよみはらのみや )(天武天皇の京)とのみは限局せられない。 そこで藤原京になってからも其処と隣接している明日香にも皇族がたの御住いがあったものであろう。 この歌の、「君」というのは、作者が親まれた男性の御方のようである。 この歌も、素直に心の動くままに言葉を使って行き、取りたてて技巧を 弄 ( ろう )していないところに感の深いものがある。 「置きて」という表現は、他にも、「大和を置きて」、「みやこを置きて」などの例もあり、注意すべき表現である。 結句の、「見えずかもあらむ」の「見えず」というのも、感覚に直接で良く、この類似の表現は万葉に多い。 ウラサブルは「 心寂 ( こころさび )しい」意。 サマネシはサは接頭語、マネシは「多い」、「 頻 ( しき )り」等の語に当る。 ナガラフはナガルという 良 ( ら )行下二段の動詞を二たび 波 ( は )行下二段に活用せしめた。 事柄の時間的継続をあらわすこと、チル(散る)からチラフとなる場合などと同じである。 一首の意は、天から 時雨 ( しぐれ )の雨が降りつづくのを見ると、うら 寂 ( さび )しい心が絶えずおこって来る、というのである。 時雨は多くは秋から冬にかけて降る雨に使っているから、やはり其時この古歌を誦したものであろうか。 旅中にあって誦するにふさわしいもので、古調のしっとりとした、はしゃがない好い味いのある歌である。 事象としては「天の時雨の流らふ」だけで、上の句は主観で、それに枕詞なども入っているから、内容としては極く単純なものだが、この単純化がやがて古歌の好いところで、一首の綜合がそのために 渾然 ( こんぜん )とするのである。 雨の降るのをナガラフと云っているのなども、他にも用例があるが、響きとしても実に好い響きである。 御二人は 従兄弟 ( いとこ )の関係になっている。 佐紀宮は現在の生駒郡 平城 ( へいじょう )村、 都跡 ( みあと )村、伏見村あたりで、長皇子の宮のあったところであろう。 志貴皇子の宮は 高円 ( たかまと )にあった。 高野原は佐紀宮の近くの高地であっただろう。 一首の意は、秋になったならば、今二人で見て居るような景色の、高野原一帯に、妻を慕って鹿が鳴くことだろう、というので、なお、そうしたら、また一段の風趣となるから、二たび来られよという意もこもっている。 この歌は、「秋さらば」というのだから現在は未だ秋でないことが分かる。 「鹿鳴かむ山ぞ」と将来のことを云っているのでもそれが分かる。 其処に「今も見るごと」という視覚上の句が入って来ているので、種々の解釈が出来たのだが、この、「今も見るごと」という句を直ぐ「妻恋ひに」、「鹿鳴かむ山」に続けずに寧ろ、「山ぞ」、「高野原の上」の方に関係せしめて解釈せしめる方がいい。 即ち、現在見渡している高野原一帯の佳景その儘に、秋になるとこの如き興に添えてそのうえ鹿の鳴く声が聞こえるという意味になる。 「今も見るごと」は「現在ある状態の佳き景色の此の高野原に」というようになり、単純な視覚よりももっと広い意味になるから、そこで視覚と聴覚との矛盾を避けることが出来るのであって、他の諸学者の種々の解釈は皆不自然のようである。 この御歌は、豊かで緊密な調べを持っており、感情が 濃 ( こま )やかに動いているにも 拘 ( かかわ )らず、そういう主観の言葉というものが無い。 それが、「鳴かむ」といい、「山ぞ」で代表せしめられている観があるのも、また重厚な「高野原の上」という名詞句で止めているあたりと調和して、万葉調の一代表的技法を形成している。 また「今も見るごと」の 入句があるために、却って歌調を常識的にしていない。 家持が「思ふどち斯くし遊ばむ、今も見るごと」(巻十七・三九九一)と歌っているのは恐らく此御歌の影響であろう。 この歌の詞書は、「長皇子与志貴皇子於佐紀宮倶宴歌」とあり、左注、「右一首長皇子」で、「御歌」とは無い。 これも、中皇命の御歌(巻一・三)の題詞を理解するのに参考となるだろう。 目次に、「長皇子御歌」と「御」のあるのは、目次製作者の筆で、歌の方には無かったものであろう。 此歌はその四番目である。 四首はどういう時の御作か、仁徳天皇の後妃 八田 ( やた )皇女との三角関係が伝えられているから、感情の強く豊かな御方であらせられたのであろう。 一首は、秋の田の稲穂の上にかかっている朝霧がいずこともなく消え去るごとく(以上序詞)私の切ない恋がどちらの方に消え去ることが出来るでしょう、それが 叶 ( かな )わずに苦しんでおるのでございます、というのであろう。 「霧らふ朝霞」は、朝かかっている秋霧のことだが、当時は、霞といっている。 キラフ・アサガスミという語はやはり重厚で平凡ではない。 第三句までは序詞だが、具体的に云っているので、象徴的として受取ることが出来る。 「わが恋やまむ」といういいあらわしは切実なので、万葉にも、「大船のたゆたふ海に 碇 ( いかり )おろしいかにせばかもわが恋やまむ」(巻十一・二七三八)、「人の見て 言 ( こと )とがめせぬ 夢 ( いめ )にだにやまず見えこそ我が恋やまむ」(巻十二・二九五八)の如き例がある。 この歌は、磐姫皇后の御歌とすると、もっと古調なるべきであるが、恋歌としては、読人不知の民謡歌に近いところがある。 併し万葉編輯当時は皇后の御歌という言伝えを素直に受納れて疑わなかったのであろう。 そこで自分は恋愛歌の古い一種としてこれを選んで吟誦するのである。 他の三首も皆佳作で棄てがたい。 君が 行日 ( ゆきけ ) 長 ( なが )くなりぬ山 尋 ( たづ )ね迎へか行かむ待ちにか待たむ (巻二・八五) 斯くばかり恋ひつつあらずは 高山 ( たかやま )の 磐根 ( いはね )し 枕 ( ま )きて死なましものを (同・八六) 在りつつも君をば待たむうち 靡 ( なび )く吾が黒髪に霜の置くまでに (同・八七) 八五の歌は、憶良の類聚歌林に斯く載ったが、古事記には 軽太子 ( かるのひつぎのみこ )が伊豫の湯に流された時、軽の 大郎女 ( おおいらつめ )( 衣通 ( そとおり )王)の歌ったもので「君が行日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」となって居り、第三句は枕詞に使っていて、この方が調べが古い。 八六の「恋ひつつあらずは」は、「恋ひつつあらず」に、詠歎の「は」の添わったもので、「恋ひつつあらずして」といって、それに満足せずに先きの希求をこめた云い方である。 それだから、散文に直せば、従来の解釈のように、「……あらんよりは」というのに帰着する。 鏡王女は鏡王の女、額田王の御姉で、後に藤原 鎌足 ( かまたり )の 嫡妻 ( ちゃくさい )となられた方とおもわれるが、この御製歌はそれ以前のものであろうか、それとも鎌足薨去(天智八年)の後、王女が大和に帰っていたのに贈りたもうた歌であろうか。 そして、「大和なる」とことわっているから、天皇は近江に居給うたのであろう。 「大島の嶺」は所在地不明だが、鏡王女の居る処の近くで相当に名高かった山だろうと想像することが出来る。 (後紀大同三年、 平群 ( へぐり )朝臣の歌にあるオホシマあたりだろうという説がある。 さすれば現在の生駒郡平群村あたりであろう。 ) 一首の意は、あなたの家をも絶えずつづけて見たいものだ。 大和のあの大島の嶺にあなたの家があるとよいのだが、というぐらいの意であろう。 「見ましを」と「あらましを」と類音で調子を取って居り、同じ事を繰返して居るのである。 そこで、天皇の御住いが大島の嶺にあればよいというのではあるまい。 若しそうだと、歌は平凡になる。 或は通俗になる。 ここは同じことを繰返しているので、古調の単純素朴があらわれて来て、優秀な歌となるのである。 前の三山の御歌も傑作であったが、この御製になると、もっと自然で、こだわりないうちに、無限の情緒を伝えている。 声調は天皇一流の大きく強いもので、これは 御気魄 ( おんきはく )の反映にほかならないのである。 「家も」の「も」は「をも」の意だから、無論王女を見たいが、せめて「家をも」というので、強めて詠歎をこもらせたとすべきであろう。 この御製は恋愛か或は広義の往来存問か。 語気からいえば恋愛だが、天皇との関係は 審 ( つまびら )かでない。 また天武天皇の十二年に、王女の病 篤 ( あつ )かった時天武天皇御自ら臨幸あった程であるから、その以前からも重んぜられていたことが分かる。 そこでこの歌は恋愛歌でなくて安否を問いたもうた御製だという説(山田博士)がある。 鎌足歿後の御製ならば或はそうであろう。 併し事実はそうでも、感情を主として味うと広義の恋愛情調になる。 一首は、秋山の木の下を隠れて流れゆく水のように、あらわには見えませぬが、わたくしの君をお慕い申あげるところの方がもっと多いのでございます。 わたくしをおもってくださる君の御心よりも、というのである。 「益さめ」の「益す」は水の増す如く、思う心の増すという意がある。 第三句までは序詞で、この程度の序詞は万葉には珍らしくないが、やはり 誤魔化 ( ごまか )さない写生がある。 それから、「われこそ 益 ( ま )さめ 御思 ( みおもひ )よりは」の句は、情緒こまやかで、且つおのずから女性の 口吻 ( こうふん )が出ているところに注意せねばならない。 特に、結句を、「御思よりは」と止めたのに無限の味いがあり、甘美に迫って来る。 これもこの歌だけについて見れば恋愛情調であるが、何処か 遜 ( へりくだ )ってつつましく云っているところに、和え歌として此歌の価値があるのであろう。 試みに同じ作者が藤原鎌足の妻になる時鎌足に贈った歌、「玉くしげ 覆 ( おほ )ふを 安 ( やす )み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」(巻二・九三)の方は 稍 ( やや )気軽に作っている点に差別がある。 併し「君が名はあれど吾が名し惜しも」の句にやはり女性の口吻が出ていて棄てがたいものである。 櫛笥 ( くしげ )の 蓋 ( ふた )をすることが 楽 ( らく )に出来るし、蓋を 開 ( あ )けることも 楽 ( らく )だから、夜の明けるの「明けて」に続けて序詞としたもので、夜が明けてからお帰りになると人に知れてしまいましょう、貴方には浮名が立ってもかまわぬでしょうが、私には困ってしまいます、どうぞ夜の明けぬうちにお帰りください、というので、鎌足のこの歌はそれに答えたのである。 「玉くしげ御室の山のさなかづら」迄は「さ寝」に続く序詞で、また、 玉匣 ( たまくしげ )をあけて見んというミから御室山のミに続けた。 或はミは 中身 ( なかみ )のミだとも云われて居る。 御室山は即ち三輪山で、「さな葛」はさね葛、美男かずらのことで、夏に白っぽい花が咲き、実は赤い。 そこで一首は、そういうけれども、おまえとこうして寝ずには、どうしても居られないのだ、というので、結句の原文「有勝麻之自」は古来種々の訓のあったのを、橋本(進吉)博士がかく訓んで学界の定説となったものである。 博士はカツと 清 ( す )んで訓んでいる。 ガツは堪える意、ガテナクニ、ガテヌカモのガテと同じ動詞、マシジはマジという助動詞の原形で、ガツ・マシジは、ガツ・マジ、堪うまじ、堪えることが出来ないだろう、我慢が出来ないと見える、というぐらいの意に落着くので、この儘こうして寝ておるのでなくてはとても我慢が出来まいというのである。 「いや遠く君がいまさば 有不勝自 ( アリガツマシジ )」(巻四・六一〇)、「辺にも沖にも 依勝益士 ( ヨリガツマシジ )」(巻七・一三五二)等の例がある。 鏡王女の歌も情味あっていいが、鎌足卿の歌も、端的で身体的に直接でなかなかいい歌である。 身体的に直接ということは即ち心の直接ということで、それを表わす言語にも直接だということになる。 「ましじ」と推量にいうのなども、丁寧で、乱暴に 押 ( おし )つけないところなども微妙でいい。 「つひに」という副詞も、強く効果的で此歌でも無くてならぬ大切な言葉である。 「生けるもの 遂 ( つひ )にも死ぬるものにあれば」(巻三・三四九)、「すゑ 遂 ( つひ )に君にあはずは」(巻十三・三二五〇)等の例がある。 一首は、吾は今まことに、美しい安見児を娶った。 世の人々の容易に得がたいとした、美しい安見児を娶った、というのである。 「吾はもや」の「もや」は詠歎の助詞で、感情を強めている。 「まあ」とか、「まことに」とか、「実に」とかを加えて解せばいい。 奉仕中の采女には厳しい規則があって 濫 ( みだ )りに娶ることなどは出来なかった、それをどういう機会にか娶ったのだから、「皆人の得がてにすとふ」の句がある。 もっともそういう制度を顧慮せずとも、美女に対する一般の感情として此句を取扱ってもかまわぬだろう。 いずれにしても作者が歓喜して得意になって歌っているのが、率直な表現によって、特に、第二句と第五句で同じ句を繰返しているところにあらわれている。 この歌は単純で明快で、濁った技巧が無いので、この直截性が読者の心に響いたので従来も秀歌として取扱われて来た。 そこで注釈家の間に寓意説、例えば 守部 ( もりべ )の、「此歌は、天皇を安見知し吾大君と申し馴て、皇子を安見す御子と申す事のあるに、此采女が名を、安見子と云につきて、今吾 レ安見子を得て、既に天皇の位を得たりと戯れ給へる也。 されば皆人の得がてにすと云も、采女が事のみにはあらず、天皇の御位の凡人に得がたき方をかけ給へる御詞也。 又得たりと云言を再びかへし給へるも、其御戯れの旨を 慥 ( たし )かに聞せんとて也。 然るにかやうなるをなほざりに見過して、万葉などは何の 巧 ( たくみ )も風情もなきものと思ひ過めるは、実におのれ解く事を得ざるよりのあやまりなるぞかし」(万葉緊要)の如きがある。 けれどもそういう説は一つの 穿 ( うが )ちに過ぎないとおもう。 この歌は集中佳作の一つであるが、興に乗じて一気に表出したという種類のもので、沈潜重厚の作というわけには行かない。 同じく句の繰返しがあっても前出天智天皇の、「妹が家も継ぎて見ましを」の御製の方がもっと重厚である。 これは作歌の態度というよりも性格ということになるであろうか、そこで、守部の説は穿ち過ぎたけれども、「戯れ給へる也」というところは一部当っている。 藤原夫人は鎌足の 女 ( むすめ )、 五百重娘 ( いおえのいらつめ )で、 新田部皇子 ( にいたべのみこ )の御母、 大原大刀自 ( おおはらのおおとじ )ともいわれた方である。 夫人 ( ぶにん )は後宮に仕える職の名で、妃に次ぐものである。 大原は今の 高市 ( たかいち )郡 飛鳥 ( あすか )村 小原 ( おはら )の地である。 一首は、こちらの里には今日大雪が降った、まことに綺麗だが、おまえの居る大原の古びた里に降るのはまだまだ後だろう、というのである。 天皇が飛鳥の 清御原 ( きよみはら )の宮殿に居られて、そこから少し離れた大原の夫人のところに贈られたのだが、謂わば即興の戯れであるけれども、親しみの御語気さながらに出ていて、沈潜して作る独詠歌には見られない特徴が、また此等の贈答歌にあるのである。 然かもこういう直接の語気を聞き得るようなものは、後世の贈答歌には無くなっている。 つまり人間的、会話的でなくなって、技巧を弄した詩になってしまっているのである。 神 ( おかみ )というのは支那ならば竜神のことで、水や雨雪を支配する神である。 一首の意は、陛下はそうおっしゃいますが、そちらの大雪とおっしゃるのは、実はわたくしが岡の 神に御祈して降らせました雪の、ほんの 摧 ( くだ )けが飛ばっちりになったに過ぎないのでございましょう、というのである。 御製の御 揶揄 ( やゆ )に対して劣らぬユウモアを漂わせているのであるが、やはり親愛の心こまやかで棄てがたい歌である。 それから、御製の方が大どかで男性的なのに比し、夫人の方は心がこまかく女性的で、技巧もこまかいのが特色である。 歌としては御製の方が優るが、天皇としては、こういう女性的な和え歌の方が却って御喜になられたわけである。 皇子が大和に帰られる時皇女の詠まれた歌である。 皇女は皇子の同母姉君の関係にある。 一首は、わが弟の君が大和に帰られるを送ろうと夜ふけて立っていて暁の露に霑れた、というので、暁は、原文に 鶏鳴露 ( アカトキツユ )とあるが、 鶏鳴 ( けいめい )(四更 丑刻 ( うしのこく ))は午前二時から四時迄であり、また万葉に 五更露爾 ( アカトキツユニ )(巻十・二二一三)ともあって、 五更 ( ごこう )( 寅刻 ( とらのこく ))は午前四時から六時迄であるから、夜の 更 ( ふけ )から程なく 暁 ( あかとき )に続くのである。 そこで、歌の、「さ夜ふけてあかとき露に」の句が理解出来るし、そのあいだ立って居られたことをも示して居るのである。 大津皇子は天武天皇崩御の後、 不軌 ( ふき )を謀ったのが 露 ( あら )われて、 朱鳥 ( あかみとり )元年十月三日死を賜わった。 伊勢下向はその前後であろうと想像せられて居るが、史実的には確かでなく、単にこの歌だけを読めば恋愛(親愛)情調の歌である。 併し、別離の情が切実で、且つ寂しい響が一首を流れているのをおもえば、そういう史実に関係あるものと仮定しても味うことの出来る歌である。 「わが背子」は、普通恋人または 夫 ( おっと )のことをいうが、この場合は御弟を「背子」と云っている。 親しんでいえば同一に帰着するからである。 「大和へやる」の「やる」という語も注意すべきもので、単に、「帰る」とか「行く」とかいうのと違って、自分の意志が 活 ( はたら )いている。 名残惜しいけれども帰してやるという意志があり、そこに強い感動がこもるのである。 「かへし遣る使なければ」(巻十五・三六二七)、「この 吾子 ( あこ )を 韓国 ( からくに )へ遣るいはへ神たち」(巻十九・四二四〇)等の例がある。 一首の意は、弟の君と一しょに行ってもうらさびしいあの秋山を、どんな 風 ( ふう )にして今ごろ弟の君はただ一人で越えてゆかれることか、というぐらいの意であろう。 前の歌のうら悲しい情調の連鎖としては、やはり悲哀の情調となるのであるが、この歌にはやはり単純な親愛のみで解けないものが底にひそんでいるように感ぜられる。 代匠記に、「殊ニ身ニシムヤウニ聞ユルハ、御謀反ノ志ヲモ聞セ給フベケレバ、事ノ 成 ( なり )ナラズモ 覚束 ( おぼつか )ナク、又ノ対面モ如何ナラムト 思召 ( おぼしめす )御胸ヨリ出レバナルベシ」とあるのは、或は当っているかも知れない。 また、「君がひとり」とあるがただの御一人でなく御伴もいたものであろう。 「妹待つと」は、「妹待つとて」、「妹を待とうとして、妹を待つために」である。 「あしひきの」は、万葉集では巻二のこの歌にはじめて出て来た枕詞であるが、説がまちまちである。 宣長の「 足引城 ( あしひきき )」説が平凡だが一番真に近いか。 「 足 ( あし )は山の 脚 ( あし )、引は長く 引延 ( ひきは )へたるを云。 城 ( き )とは凡て 一構 ( ひとかまへ )なる 地 ( ところ )を云て此は即ち山の 平 ( たひら )なる処をいふ」(古事記伝)というのである。 御歌は、繰返しがあるために、内容が単純になった。 けれどもそのために親しみの情が却って深くなったように思えるし、それに第一その歌調がまことに快いものである。 第二句の「雫に」は「沾れぬ」に続き、結句の「雫に」もまたそうである。 こういう簡単な表現はいざ実行しようとするとそう容易にはいかない。 右に石川郎女の 和 ( こた )え奉った歌は、「 吾 ( あ )を待つと君が 沾 ( ぬ )れけむあしひきの 山 ( やま )の 雫 ( しづく )にならましものを」(巻二・一〇八)というので、その雨雫になりとうございますと、媚態を示した女らしい語気の歌である。 郎女の歌は受身でも機智が働いているからこれだけの親しい歌が出来た。 共に互の微笑をこめて唱和しているのだが、皇子の御歌の方がしっとりとして居るところがある。 持統天皇の吉野行幸は前後三十二回にも上るが、 杜鵑 ( ほととぎす )の 啼 ( な )く頃だから、持統四年五月か、五年四月であっただろう。 一首の意は、この鳥は、過去ったころの事を思い慕うて啼く鳥であるのか、今、 弓弦葉 ( ゆづるは )の 御井 ( みい )のほとりを啼きながら飛んで行く、というのである。 「 古 ( いにしへ )」即ち、過去の事といふのは、天武天皇の御事で、皇子の御父であり、吉野とも、また額田王とも御関係の深かったことであるから、そこで杜鵑を機縁として追懐せられたのが、「古に恋ふる鳥かも」という句で、簡浄の中に 情緒 ( じょうちょ )充足し何とも言えぬ句である。 そしてその下に、杜鵑の行動を写して、具体的現実的なものにしている。 この関係は芸術の常道であるけれども、こういう具合に精妙に表われたものは極く 稀 ( まれ )であることを知って置く方がいい。 「弓弦葉の御井」は既に固有名詞になっていただろうが、弓弦葉(ゆずり葉)の好い樹が清泉のほとりにあったためにその名を得たので、これは、後出の、「山吹のたちよそひたる山清水」(巻二・一五八)と同様である。 そして此等のものが皆一首の大切な要素として盛られているのである。 「上より」は経過する意で、「より」、「ゆ」、「よ」等は多くは運動の語に続き、此処では「啼きわたり行く」という運動の語に続いている。 この語なども古調の妙味実に云うべからざるものがある。 既に年老いた額田王は、この御歌を読んで深い感慨にふけったことは既に言うことを 須 ( もち )いない。 この歌は人麿と同時代であろうが、人麿に無い 簡勁 ( かんけい )にして静和な響をたたえている。 額田王は右の御歌に「 古 ( いにしへ )に恋ふらむ鳥は 霍公鳥 ( ほととぎす )けだしや啼きしわが恋ふるごと」(同・一一二)という歌を以て 和 ( こた )えている。 皇子の御歌には 杜鵑 ( ほととぎす )のことははっきり云ってないので、この歌で、杜鵑を明かに云っている。 そして、額田王も 亦 ( また )古を追慕すること痛切であるが、そのように杜鵑が啼いたのであろうという意である。 この歌は皇子の歌よりも遜色があるので取立てて選抜しなかった。 併し既に老境に入った額田王の歌として注意すべきものである。 なぜ皇子の歌に比して 遜色 ( そんしょく )があるかというに、和え歌は受身の位置になり、相撲ならば、受けて立つということになるからであろう。 贈り歌の方は第一次の感激であり、和え歌の方はどうしても間接になりがちだからであろう。 この「人言を」の歌は、皇女が高市皇子の宮に居られ、 窃 ( ひそ )かに穂積皇子に接せられたのが 露 ( あら )われた時の御歌である。 「秋の田の」の歌は上の句は序詞があって、技巧も巧だが、「君に寄りなな」の句は強く純粋で、また語気も女性らしいところが出ていてよいものである。 「人言を」の歌は、一生涯これまで一度も経験したことの無い朝川を渡ったというのは、実際の写生で、実質的であるのが人の心を 牽 ( ひ )く。 特に皇女が皇子に逢うために、 秘 ( ひそ )かに朝川を渡ったというように想像すると、なお切実の度が増すわけである。 普通女が男の許に通うことは稀だからである。 当時人麿は石見の国府(今の 那賀 ( なか )郡 下府上府 ( しもこうかみこう ))にいたもののようである。 妻はその近くの 角 ( つぬ )の 里 ( さと )(今の 都濃津 ( つのつ )附近)にいた。 高角山は角の里で高い山というので、今の 島星山 ( しまのほしやま )であろう。 角の里を通り、島星山の麓を縫うて 江川 ( ごうのがわ )の岸に出たもののようである。 石見の高角山の山路を来てその木の間から、妻のいる里にむかって、振った私の袖を妻は見たであろうか。 角の里から山までは距離があるから、実際は妻が見なかったかも知れないが、心の自然的なあらわれとして歌っている。 そして人麿一流の波動的声調でそれを統一している。 そしてただ威勢のよい声調などというのでなく、妻に対する濃厚な愛情の出ているのを注意すべきである。 人麿が馬に乗って今の 邑智 ( おおち )郡の山中あたりを通った時の歌だと想像している。 私は人麿上来の道筋をば、出雲路、山陰道を通過せしめずに、今の邑智郡から 赤名越 ( あかなごえ )をし、 備後 ( びんご )にいでて、瀬戸内海の船に乗ったものと想像している。 今通っている山中の笹の葉に風が吹いて、ざわめき 乱 ( みだ )れていても、わが心はそれに 紛 ( まぎ )れることなくただ 一向 ( ひたすら )に、別れて来た妻のことをおもっている。 今現在山中の笹の葉がざわめき乱れているのを、直ぐ取りあげて、それにも 拘 ( かか )わらずただ一筋に妻をおもうと言いくだし、それが通俗に堕せないのは、一首の古調のためであり、人麿的声調のためである。 そして人麿はこういうところを歌うのに決して軽妙には歌っていない。 飽くまで実感に即して 執拗 ( しつよう )に歌っているから軽妙に 滑 ( すべ )って行かないのである。 第三句ミダレドモは古点ミダルトモであったのを仙覚はミダレドモと訓んだ。 それを賀茂真淵はサワゲドモと訓み、橘守部はサヤゲドモと訓み、近時この訓は有力となったし、「 ササの葉はみ山も サヤに サヤげども」とサ音で調子を取っているのだと解釈しているが、これは 寧 ( むし )ろ、「 ササの葉は ミヤマも サヤに ミダレども」のようにサ音とミ音と両方で調子を取っているのだと解釈する方が 精 ( くわ )しいのである。 サヤゲドモではサの音が多過ぎて軽くなり過ぎる。 次に、万葉には四段に活かせたミダルの例はなく、あっても他動詞だから応用が出来ないと論ずる学者(沢瀉博士)がいて、殆ど定説にならんとしつつあるが、既にミダリニの副詞があり、それが自動詞的に使われている以上(日本書紀に濫・妄・浪等を当てている)は、四段に活用した証拠となり、古訓法華経の、「不 二 妄 ( ミダリニ )開示 一」、古訓老子の、「不 レ知 レ常 妄 ( ミダリニ )作 シテ凶 ナリ」等をば、参考とすることが出来る。 即ち万葉時代の人々が其等をミダリニと訓んでいただろう。 そのほかミダリガハシ、ミダリゴト、ミダリゴコチ、ミダリアシ等の用例が古くあるのである。 また自動詞他動詞の区別は絶対的でない以上、四段のミダルは平安朝以後のように他動詞に限られた一種の約束を人麿時代迄 溯 ( さかのぼ )らせることは無理である。 また、此の場合の笹の葉の状態は聴覚よりも寧ろ聴覚を伴う視覚に重きを置くべきであるから、それならばミダレドモと訓む方がよいのである。 若しどうしても四段に活用せしめることが出来ないと一歩を譲って、下二段に活用せしめるとしたら、古訓どおりにミダルトモと訓んでも 毫 ( ごう )も鑑賞に 差支 ( さしつかえ )はなく、前にあった人麿の、「ささなみの志賀の大わだヨドムトモ」(巻一・三一)の歌の場合と同じく、現在の光景でもトモと用い得るのである。 声調の上からいえばミダルトモでもサヤゲドモよりも 優 ( ま )さっている。 併しミダレドモと訓むならばもっとよいのだから、私はミダレドモの訓に執着するものである。 (本書は簡単を必要とするからミダル四段説は別論して置いた。 ) 巻七に、「竹島の阿渡白波は 動 ( とよ )めども(さわげども)われは家おもふ 廬 ( いほり )悲しみ」(一二三八)というのがあり、類似しているが、人麿の歌の模倣ではなかろうか。 「青駒」はいわゆる青毛の馬で、黒に青みを帯びたもの、大体黒馬とおもって差支ない。 白馬だという説は当らない。 「足掻を速み」は馬の 駈 ( か )けるさまである。 一首の意は、妻の居るあたりをもっと見たいのだが、自分の乗っている青馬の駈けるのが速いので、妻のいる筈の里も、いつか 空遠 ( そらとお )く隔ってしまった、というのである。 内容がこれだけだが、歌柄が強く大きく、人麿的声調を遺憾なく発揮したものである。 恋愛の悲哀といおうより寧ろ荘重の気に打たれると云った声調である。 そこにおのずから人麿的な一つの類型も聯想せられるのだが、人麿は 細々 ( こまごま )したことを描写せずに、 真率 ( しんそつ )に真心をこめて歌うのがその特徴だから内容の単純化も行われるのである。 「雲居にぞ」といって、「過ぎて来にける」と止めたのは実に旨い。 もっともこの調子は藤原の御井の長歌にも、「雲井にぞ遠くありける」(巻一・五二)というのがある。 この歌の次に、「秋山に落つる 黄葉 ( もみぢば )しましくはな散り 乱 ( みだ )れそ 妹 ( いも )があたり見む」(巻二・一三七)というのがある。 これも客観的よりも、心の調子で歌っている。 それを嫌う人は嫌うのだが、軽浮に堕ちない点を 見免 ( みのが )してはならぬのである。 この石見から上来する時の歌は人麿としては晩年の作に属するものであろう。 斉明紀四年十一月の条に、「於 レ是皇太子、親間 二有間皇子 一曰、何故謀反、答曰、天与 二赤兄 一知、吾全不 レ解」の記事がある。 この歌は行宮へ送られる途中磐代(今の紀伊日高郡南部町岩代)海岸を通過せられた時の歌である。 皇子は十一日に行宮から護送され、藤白坂で 絞 ( こう )に処せられた。 御年十九。 万葉集の詞書には、「有間皇子自ら 傷 ( かな )しみて松が枝を結べる歌二首」とあるのは、以上のような御事情だからであった。 一首の意は、自分はかかる身の上で磐代まで来たが、いま浜の松の枝を結んで幸を祈って行く。 幸に無事であることが出来たら、二たびこの結び松をかえりみよう、というのである。 松枝を結ぶのは、草木を結んで幸福をねがう信仰があった。 無事であることが出来たらというのは、皇太子の訊問に対して言い開きが出来たらというので、皇子は恐らくそれを信じて居られたのかも知れない。 「天と赤兄と知る」という御一語は悲痛であった。 けれども此歌はもっと哀切である。 こういう万一の場合にのぞんでも、ただの主観の語を 吐出 ( はきだ )すというようなことをせず、御自分をその 儘 ( まま )素直にいいあらわされて、そして結句に、「またかへり見む」という感慨の語を据えてある。 これはおのずからの写生で、抒情詩としての短歌の態度はこれ以外には無いと 謂 ( い )っていいほどである。 作者はただ有りの儘に写生したのであるが、後代の吾等がその技法を吟味すると種々の事が云われる。 例えば第三句で、「引き結び」と云って置いて、「まさきくあらば」と続けているが、そのあいだに幾分の休止あること、「豊旗雲に入日さし」といって、「こよひの月夜」と続け、そのあいだに幾分の休止あるのと似ているごときである。 こういう事が自然に実行せられているために、歌調が、後世の歌のような常識的平俗に 堕 ( おち )ることが無いのである。 「笥」というのは和名鈔に盛食器也とあって 飯笥 ( いいけ )のことである。 そしてその頃高貴の方の食器は銀器であっただろうと考証している(山田博士)。 一首は、家(御殿)におれば、笥(銀器)に盛る飯をば、こうして旅を来ると椎の葉に盛る、というのである。 笥をば銀の飯笥とすると、椎の小枝とは非常な差別である。 前の御歌は、「 真幸 ( まさき )くあらばまたかへりみむ」と強い感慨を漏らされたが、痛切複雑な御心境を、かく単純にあらわされたのに驚いたのであるが、此歌になると殆ど感慨的な語がないのみでなく、詠歎的な助詞も助動詞も無いのである。 併し底を流るる哀韻を見のがし得ないのはどうしてか。 吾等の常識では「草枕旅にしあれば」などと、普通 旅 ( きりょ )の不自由を歌っているような内容でありながら、そういうものと違って感ぜねばならぬものを此歌は持っているのはどうしてか。 これは史実を顧慮するからというのみではなく、史実を念頭から去っても同じことである。 これは皇子が、生死の問題に直面しつつ経験せられた現実を 直 ( ただち )にあらわしているのが、やがて普通の 旅とは違ったこととなったのである。 写生の 妙諦 ( みょうてい )はそこにあるので、この結論は大体間違の無いつもりである。 中大兄皇子の、「 香具 ( かぐ )山と 耳成 ( みみなし )山と会ひしとき立ちて見に来し 印南 ( いなみ )国原」(巻一・一四)という歌にも、この客観的な荘厳があったが、あれは伝説を歌ったので、「 嬬 ( つま )を争ふらしき」という感慨を潜めていると云っても対象が対象だから此歌とは違うのである。 然るに有間皇子は御年僅か十九歳にして、 斯 ( かか )る客観的荘厳を 成就 ( じょうじゅ )せられた。 皇子の以上の二首、特にはじめの方は時の人々を感動せしめたと見え、「磐代の岸の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも」(巻二・一四三)、「磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ」(同・一四四、 長忌寸意吉麿 ( ながのいみきおきまろ ))、「つばさなすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ」(同・一四五、山上憶良)、「後見むと君が結べる磐代の子松がうれをまた見けむかも」(同・一四六、人麿歌集)等がある。 併し歌は皆皇子の御歌には及ばないのは、心が間接になるからであろう。 また、 穂積朝臣老 ( ほづみのあそみおゆ )が近江行幸(養老元年か)に 供奉 ( ぐぶ )した時の「吾が命し 真幸 ( まさき )くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白浪」(巻三・二八八)もあるが、皇子の歌ほど切実にひびかない。 「椎の葉」は、和名鈔は、「椎子 和名之比」であるから 椎 ( しい )の 葉 ( は )であってよいが、 楢 ( なら )の 葉 ( は )だろうという説がある。 そして新撰字鏡に、「椎、 奈良乃木 ( ナラノキ )也」とあるのもその証となるが、陰暦十月上旬には楢は既に落葉し尽している。 また「 遅速 ( おそはや )も 汝 ( な )をこそ待ため向つ 峰 ( を )の椎の 小枝 ( こやで )の逢ひは 違 ( たげ )はじ」(巻十四・三四九三)と或本の歌、「椎の 小枝 ( さえだ )の時は過ぐとも」の 椎 ( しい )は 思比 ( シヒ )、 四比 ( シヒ )と書いているから、 楢 ( なら )ではあるまい。 そうすれば、椎の小枝を折ってそれに飯を盛ったと解していいだろう。 「片岡の 此 ( この ) 向 ( むか )つ 峯 ( を )に 椎 ( しひ )蒔かば今年の夏の陰になみむか」(巻七・一〇九九)も 椎 ( しい )であろうか。 そして此歌は詠 レ岳だから、椎の木の生長のことなどそう合理的でなくとも、ふとそんな気持になって詠んだものであろう。 天皇は十年冬九月御不予、十月御病重く、十二月近江宮に崩御したもうたから、これは九月か十月ごろの御歌であろうか。 一首の意は、天を遠くあおぎ見れば、悠久にしてきわまりない。 今、天皇の 御寿 ( おんいのち )もその天の如くに満ち足っておいでになる、聖寿無極である、というのである。 天皇御不予のことを知らなければ、ただの寿歌、祝歌のように受取れる御歌であるが、繰返し吟誦し奉れば、かく御願い、かく仰せられねばならぬ切な御心の、切実な悲しみが潜むと感ずるのである。 特に、結句に「天足らしたり」と強く断定しているのは、却ってその詠歎の 究竟 ( きゅうきょう )とも謂うことが出来る。 橘守部 ( たちばなのもりべ )は、この御歌の「天の原」は天のことでなしに、家の屋根の事だと考証し、新室を祝う 室寿 ( むろほぎ )の詞の中に「み空を見れば万代にかくしもがも」云々とある等を証としたが、その屋根を天に 準 ( たと )えることは、新家屋を 寿 ( ことほ )ぐのが主な動機だから自然にそうなるので、また、万葉巻十九(四二七四)の 新甞会 ( にいなめえ )の歌の「 天 ( あめ )にはも 五百 ( いほ )つ綱はふ 万代 ( よろづよ )に国知らさむと五百つ綱 延 ( は )ふ」でも、宮殿内の 肆宴 ( しえん )が主だからこういう云い方になるのである。 御不予御平癒のための願望動機とはおのずから違わねばならぬと思うのである。 縦 ( たと )い、実際的の吉凶を 卜 ( ぼく )する行為があったとしても、天空を仰いでも卜せないとは限らぬし、そういう行為は現在伝わっていないから分からぬ。 私は、歌に「天の原ふりさけ見れば」とあるから、素直に天空を仰ぎ見たことと解する旧説の方が却って原歌の真を伝えているのでなかろうかと思うのである。 守部説は少し 穿過 ( うがちす )ぎた。 この歌は「天の原ふりさけ見れば」といって直ぐ「大王の御寿は」と続けている。 これだけでみると、吉凶を卜して吉の徴でも得たように取れるかも知れぬが、これはそういうことではあるまい。 此処に常識的意味の上に省略と単純化とがあるので、此は古歌の特徴なのである。 散文ならば、蒼天の無際無極なるが如く云々と補充の出来るところなのである。 この御歌の下の句の訓も、古鈔本では京都大学本がこう訓み、近くは 略解 ( りゃくげ )がこう訓んで諸家それに従うようになったものである。 初句「青旗の」は、下の「木旗」に 懸 ( かか )る枕詞で、青く樹木の繁っているのと、下のハタの音に関聯せしめたものである。 「木幡」は地名、山城の 木幡 ( こはた )で、天智天皇の御陵のある 山科 ( やましな )に近く、古くは、「山科の 木幡 ( こはた )の山を馬はあれど」(巻十一・二四二五)ともある如く、山科の木幡とも云った。 天皇の御陵の辺を見つつ詠まれたものであろう。 右は大体契沖の説だが、「青旗の木旗」をば葬儀の時の 幢幡 ( どうばん )のたぐいとする説(考・檜嬬手・攷證)がある。 自分も一たびそれに従ったことがあるが、今度は契沖に従った。 一首の意。 〔青旗の〕(枕詞)木幡山の御墓のほとりを天がけり通いたもうとは目にありありとおもい浮べられるが、直接にお逢い奉ることが無い。 御身と親しく御逢いすることがかなわない、というのである。 御歌は単純蒼古で、 徒 ( いたず )らに 艶 ( つや )めかず技巧を無駄使せず、前の御歌同様集中傑作の一つである。 「直に」は、現身と現身と直接に会うことで、それゆえ万葉に用例がなかなか多い。 「 百重 ( ももへ )なす心は思へど 直 ( ただ )に逢はぬかも」(巻四・四九六)、「うつつにし直にあらねば」(巻十七・三九七八)、「直にあらねば恋ひやまずけり」(同・三九八〇)、「夢にだに継ぎて見えこそ直に逢ふまでに」(巻十二・二九五九)などである。 「目には見れども」は、眼前にあらわれて来ることで、写象として、 幻 ( まぼろし )として、夢等にしていずれでもよいが、此処は写象としてであろうか。 「み空ゆく 月読 ( つくよみ ) 男 ( をとこ )ゆふさらず目には見れども寄るよしもなし」(巻七・一三七二)、「 人言 ( ひとごと )をしげみこちたみ 我背子 ( わがせこ )を目には見れども逢ふよしもなし」(巻十二・二九三八)の歌があるが、皆民謡風の軽さで、この御歌ほどの切実なところが無い。 倭太后は倭姫皇后のことである。 一首の意は、他の人は 縦 ( たと )い 御崩 ( おかく )れになった天皇を、思い慕うことを止めて、忘れてしまおうとも、私には天皇の面影がいつも見えたもうて、忘れようとしても忘れかねます、というのであって、独詠的な特徴が存している。 「玉かづら」は 日蔭蔓 ( ひかげかずら )を髪にかけて飾るよりカケにかけ、カゲに懸けた枕詞とした。 山田博士は葬儀の時の 華縵 ( けまん )として単純な枕詞にしない説を立てた。 この御歌には、「影に見えつつ」とあるから、前の御歌もやはり写象のことと解することが出来るとおもう。 「見し人の言問ふ姿面影にして」(巻四・六〇二)、「面影に見えつつ妹は忘れかねつも」(巻八・一六三〇)、「面影に懸かりてもとな思ほゆるかも」(巻十二・二九〇〇)等の用例が多い。 この御歌は、「人は縦し思ひ止むとも」と強い主観の詞を云っているけれども、全体としては前の二つの御歌よりも 寧 ( むし )ろ弱いところがある。 それは恐らく下の句の声調にあるのではなかろうか。 十市皇女は天武天皇の皇長女、御母は 額田女王 ( ぬかだのおおきみ )、弘文天皇の妃であったが、 壬申 ( じんしん )の戦後、 明日香清御原 ( あすかのきよみはら )の宮(天武天皇の宮殿)に帰って居られた。 天武天皇七年四月、伊勢に行幸御進発間際に急逝せられた。 天武紀に、七年夏四月、丁亥朔、欲 レ幸 二斎宮 一、卜 レ之、癸巳食 レ卜、仍取 二平旦時 一、警蹕既動、百寮成 レ列、乗輿命 レ蓋、以未 レ及 二出行 一、十市皇女、卒然病発、薨 二於宮中 一、由 レ此鹵簿既停、不 レ得 二幸行 一、遂不 レ祭 二神祇 一矣とある。 高市皇子は異母弟の間柄にあらせられる。 御墓は赤穂にあり、今は赤尾に作っている。 一首の意は、山吹の花が、美しくほとりに咲いている山の泉の水を、汲みに行こうとするが、どう 通 ( とお )って行ったら好いか、その道が分からない、というのである。 山吹の花にも似た姉の十市皇女が急に死んで、どうしてよいのか分からぬという心が含まれている。 作者は山清水のほとりに山吹の美しく咲いているさまを一つの写象として念頭に浮べているので、謂わば十市皇女と関聯した一つの象徴なのである。 そこで、どうしてよいか分からぬ悲しい心の有様を「道の知らなく」と云っても、感情上 毫 ( すこ )しも無理ではない。 併し、常識からは、一定の山清水を指定しているのなら、「道の知らなく」というのがおかしいというので、橘守部の如く、「山吹の立ちよそひたる山清水」というのは、「黄泉」という支那の熟語をくだいてそういったので、黄泉まで尋ねて行きたいが幽冥界を異にしてその行く道を知られないというように解するようになる。 守部の解は常識的には道理に近く、或は作者はそういう意図を以て作られたのかも知れないが、歌の鑑賞は、字面にあらわれたものを第一義とせねばならぬから、おのずから私の解釈のようになるし、それで感情上決して不自然ではない。 第二句、「立儀足」は旧訓サキタルであったのを代匠記がタチヨソヒタルと訓んだ。 その他にも異訓があるけれども大体代匠記の訓で定まったようである。 ヨソフという語は、「水鳥のたたむヨソヒに」(巻十四・三五二八)をはじめ諸例がある。 「山吹の立ちよそひたる山清水」という句が、既に写象の鮮明なために一首が佳作となったのであり、一首の意味もそれで押とおして行って味えば、この歌の優れていることが分かる。 古調のいい難い妙味があると共に、意味の上からも順直で無理が無い。 黄泉云々の事はその奥にひそめつつ、挽歌としての関聯を鑑賞すべきである。 なぜこの歌の上の句が切実かというに、「かはづ鳴く 甘南備 ( かむなび )河にかげ見えて今か咲くらむ山吹の花」(巻八・一四三五)等の如く、当時の人々が愛玩した花だからであった。 原文には一書曰、太上天皇御製歌、とあるのは、文武天皇の御世から見て持統天皇を太上天皇と申奉った。 即ち持統天皇御製として言伝えられたものである。 一首は、北山に 連 ( つらな )ってたなびき居る雲の、青雲の中の(蒼き空の)星も移り、月も移って行く。 天皇おかくれになって 万 ( よろ )ず過ぎゆく御心持であろうが、ただ思想の 綾 ( あや )でなく、もっと具体的なものと解していい。 大体右の如く解したが、此歌は実は難解で種々の説がある。 「北山に」は原文「向南山」である。 南の方から北方にある山科の御陵の山を望んで「向南山」と云ったものであろう。 「つらなる雲の」は原文「陣(陳)雲之」で旧訓タナビククモノであるが、古写本中ツラナルクモノと訓んだのもある。 けれども古来ツラナルクモという用例は無いので、山田博士の如きも旧訓に従った。 併しツラナルクモも可能訓と謂われるのなら、この方が型を破って却って深みを増して居る。 次に「青雲」というのは青空・青天・蒼天などということで、雲というのはおかしいようだが、「青雲のたなびく日すら 霖 ( こさめ )そぼ降る」(巻十六・三八八三)、「青雲のいでこ我妹子」(巻十四・三五一九)、「青雲の向伏すくにの」(巻十三・三三二九)等とあるから、晴れた蒼天をも青い雲と信じたものであろう。 そこで、「北山に続く青空」のことを、「北山につらなる雲の青雲の」と云ったと解し得るのである。 これから、星のことも月のことも、単に「物変星移幾度秋」の如きものでなく、現実の星、現実の月の移ったことを見ての詠歎と解している。 面倒な歌だが、右の如くに解して、自分は此歌を尊敬し愛誦している。 「春過ぎて夏来るらし」と殆ど同等ぐらいの位置に置いている。 何か 渾沌 ( こんとん )の気があって二二ガ四と割切れないところに心を 牽 ( ひ )かれるのか、それよりももっと真実なものがこの歌にあるからであろう。 自分は、「北山につらなる雲の」だけでももはや尊敬するので、それほど古調を尊んでいるのだが、少しく偏しているか知らん。 御二人は御姉弟の間柄であることは既に前出の歌のところで云った。 皇子は 朱鳥 ( あかみとり )元年十月三日に死を賜わった。 また皇女が天武崩御によって 斎王 ( いつきのおおきみ )を退き(天皇の御代毎に交代す)帰京せられたのはやはり朱鳥元年十一月十六日だから、皇女は皇子の死を大体知っていられたと思うが、帰京してはじめて事の委細を聞及ばれたものであっただろう。 一首の意。 〔神風の〕(枕詞)伊勢国にその儘とどまっていた方がよかったのに、君も此世を去って、もう居られない都に何しに還って来たことであろう。 「伊勢の国にもあらましを」の句は、皇女真実の御声であったに相違ない。 家郷である大和、ことに京に還るのだから喜ばしい筈なのに、この御詞のあるのは、強く読む者の心を打つのである。 第三句に、「あらましを」といい、結句に、「あらなくに」とあるのも重くして悲痛である。 なお、同時の御作に、「見まく欲り吾がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに」(巻二・一六四)がある。 前の結句、「君もあらなくに」という句が此歌では第三句に置かれ、「馬疲るるに」という実事の句を以て結んで居るが、、この結句にもまた 愬 ( うった )えるような響がある。 以上の二首は連作で二つとも 選 ( よ )っておきたいが、今は一つを従属的に取扱うことにした。 「 弟背 ( いろせ )」は原文「弟世」とあり、イモセ、ヲトセ、ナセ、ワガセ等の諸訓があるが、新訓のイロセに従った。 同母兄弟をイロセということ、古事記に、「天照大御神之 伊呂勢 ( イロセ )」、「其 伊呂兄 ( イロセ )五瀬命」等の用例がある。 第一首。 生きて現世に残っている私は、明日からはこの二上山をば弟の君とおもって見て慕い 偲 ( しの )ぼう。 今日いよいよ此処に葬り申すことになった。 第二首。 石のほとりに生えている、美しいこの馬酔木の花を手折もしようが、その花をお見せ申す弟の君はもはやこの世に生きて居られない。 「君がありと云はなくに」は文字どおりにいえば、「一般の人々が此世に君が生きて居られるとは云わぬ」ということで、人麿の歌などにも、「人のいへば」云々とあるのと同じく、一般にそういわれているから、それが本当であると強めた云い方にもなり、 兎 ( と )に 角 ( かく )そういう云い方をしているのである。 馬酔木については、「山もせに咲ける馬酔木の、 悪 ( にく )からぬ君をいつしか、往きてはや見む」(巻八・一四二八)、「馬酔木なす栄えし君が掘りし井の」(巻七・一一二八)等があり、自生して人の好み賞した花である。 この二首は、前の御歌等に較べて、稍しっとりと底深くなっているようにおもえる。 「何しか来けむ」というような強い激越の調がなくなって、「現身の人なる吾や」といって、 諦念 ( ていねん )の如き心境に入ったもののいいぶりであるが、併し二つとも優れている。 皇子尊 ( みこのみこと )と書くのは皇太子だからである。 日並皇子尊( 草壁皇子 ( くさかべのみこ ))は持統三年に薨ぜられた。 「ぬばたまの夜わたる月の隠らく」というのは日並皇子尊の薨去なされたことを申上げたので、そのうえの、「あかねさす日は照らせれど」という句は、言葉のいきおいでそう云ったものと解釈してかまわない。 つまり、「月の隠らく惜しも」が主である。 全体を一種象徴的に歌いあげている。 そしてその歌調の 渾沌 ( こんとん )として深いのに吾々は注意を払わねばならない。 この歌の第二句は、「日は照らせれど」であるから、以上のような解釈では物足りないものを感じ、そこで、「あかねさす日」を持統天皇に 譬 ( たと )え奉ったものと解釈する説が多い。 然るに皇子尊薨去の時には天皇が未だ即位し給わない等の史実があって、常識からいうと、実は変な 辻棲 ( つじつま )の合わぬ歌なのである。 併し此処は 真淵 ( まぶち )が 万葉考 ( まんようこう )で、「日はてらせれどてふは月の隠るるをなげくを 強 ( ツヨ )むる言のみなり」といったのに従っていいと思う。 或はこの歌は年代の明かな人麿の作として最初のもので、初期(想像年齢二十七歳位)の作と看做していいから、幾分常識的散文的にいうと 腑 ( ふ )に落ちないものがあるかも知れない。 特に人麿のものは句と句との連続に、省略があるから、それを顧慮しないと解釈に無理の生ずる場合がある。 「 勾 ( まがり )の池」は島の宮の池で、現在の 高市 ( たかいち )郡高市村の小学校近くだろうと云われている。 一首の意は、勾の池に 放 ( はな )ち 飼 ( がい )にしていた 禽鳥 ( きんちょう )等は、皇子尊のいまさぬ後でも、なお人なつかしく、水上に浮いていて水に 潜 ( くぐ )ることはないというのである。 真淵は此一首を、 舎人 ( とねり )の作のまぎれ込んだのだろうと云ったが、舎人等の歌は、かの二十三首でも人麿の作に比して一般に劣るようである。 例えば、「島の宮 上 ( うへ )の池なる放ち鳥荒びな行きそ君 坐 ( ま )さずとも」(巻二・一七二)、「 御立 ( みたち )せし島をも家と住む鳥も荒びなゆきそ年かはるまで」(同・一八〇)など、内容は類似しているけれども、何処か違うではないか。 そこで参考迄に此一首を抜いて置いた。 「東の滝の御門」は皇子尊の島の宮殿の正門で、 飛鳥 ( あすか )川から水を引いて滝をなしていただろうと云われている。 「人音もせねば」は、人の出入も稀に 寂 ( さび )れた様をいった。 第一首。 島の宮の東門の滝の御門に伺候して居るが、昨日も今日も召し給うことがない。 嘗 ( かつ )て召し給うた御声を聞くことが出来ない。 第二首。 嘗て皇子尊の此世においでになった頃は、朝日の光の照るばかりであった島の宮の御門も、今は人の音ずれも稀になって、心もおぼろに悲しいことである、というのである。 舎人等の歌二十三首は、素直に、心情を 抒 ( の )べ、また当時の歌の声調を伝えて居る点を注意すべきであるが、人麿が作って呉れたという説はどうであろうか。 よく読み味って見れば、少し 楽 ( らく )でもあり、手の足りないところもあるようである。 なお二十三首のうちには次の如きもある。 敷妙 ( しきたへ )の 袖交 ( そでか )へし 君 ( きみ ) 玉垂 ( たまだれ )のをち 野 ( ぬ )に 過 ( す )ぎぬ 亦 ( また )も 逢 ( あ )はめやも 〔巻二・一九五〕 柿本人麿 この歌は、 川島 ( かわしま )皇子が 薨 ( こう )ぜられた時、柿本人麿が 泊瀬部 ( はつせべ )皇女と 忍坂部 ( おさかべ )皇子とに 献 ( たてまつ )った歌である。 川島皇子(天智天皇第二皇子)は泊瀬部皇女の夫の君で、また泊瀬部皇女と忍坂部皇子とは御兄妹の御関係にあるから、人麿は川島皇子の薨去を悲しんで、御両人に同時に御見せ申したと解していい。 「敷妙の」も、「玉垂の」もそれぞれ下の語に 懸 ( かか )る枕詞である。 「袖 交 ( か )へし」のカフは 波 ( は )行下二段に活用し、袖をさし 交 ( かわ )して寝ることで、「白妙の袖さし 交 ( か )へて 靡 ( なび )き 寝 ( ね )し」(巻三・四八一)という用例もある。 「過ぐ」とは死去することである。 一首は、敷妙の袖をお互に 交 ( か )わして契りたもうた川島皇子の君は、今 越智野 ( おちぬ )(大和国高市郡)に葬られたもうた。 今後二たびお逢いすることが出来ようか、もうそれが出来ない、というのである。 この歌は皇女の御気持になり、皇女に同情し奉った歌だが、人麿はそういう場合にも自分の事のようになって作歌し得たもののようである。 そこで一首がしっとりと充実して決して 申訣 ( もうしわけ )の 余所余所 ( よそよそ )しさというものが無い。 第四句で、「越智野に過ぎぬ」と切って、二たび語を起して、「またもあはめやも」と止めた調べは、まことに涙を誘うものがある。 皇女と皇子との御関係は既に云った如くである。 吉隠 ( よなばり )は 磯城 ( しき )郡初瀬町のうちで、猪養の岡はその吉隠にあったのであろう。 「あはにな降りそ」は、諸説あるが、多く降ること 勿 ( なか )れというのに従っておく。 「 塞 ( せき )なさまくに」は 塞 ( せき )をなさんに、 塞 ( せき )となるだろうからという意で、これも諸説がある。 金沢本には、「塞」が「寒」になっているから、新訓では、「寒からまくに」と訓んだ。 一首は、降る雪は余り多く降るな。 但馬皇女のお墓のある吉隠の猪養の岡にかよう道を 遮 ( さえぎ )って邪魔になるから、というので、皇子は藤原京(高市郡鴨公村)からこの吉隠(初瀬町)の方を遠く望まれたものと想像することが出来る。 皇女の薨ぜられた時には、皇子は 知太政官事 ( ちだいじょうかんじ )の職にあられた。 御多忙の御身でありながら、或雪の降った日に、往事のことをも追懐せられつつ吉隠の方にむかってこの吟咏をせられたものであろう。 この歌には、解釈に未定の点があるので、鑑賞にも邪魔する点があるが、大体右の如くに定めて鑑賞すればそれで満足し得るのではあるまいか。 前出の、「君に寄りなな」とか、「朝川わたる」とかは、皆皇女の御詞であった。 そして此歌に於てはじめて吾等は皇子の御詞に接するのだが、それは皇女の御墓についてであった。 そして血の出るようなこの一首を作られたのであった。 結句の「塞なさまくに」は強く迫る句である。 この人麿の妻というのは 軽 ( かる )の 里 ( さと )(今の畝傍町大軽和田石川五条野)に住んでいて、其処に人麿が通ったものと見える。 この妻の急に死んだことを使の者が知らせた 趣 ( おもむき )が長歌に見えている。 一首は、自分の愛する妻が、秋山の 黄葉 ( もみじ )の茂きがため、その中に迷い入ってしまった。 その妻を尋ね求めんに道が分からない、というのである。 死んで葬られることを、秋山に迷い入って隠れた趣に歌っている。 こういう云い方は、現世の生の連続として遠い処に行く趣にしてある。 当時は未だそう信じていたものであっただろうし、そこで愛惜の心も強く附帯していることとなる。 「迷はせる」は迷いなされたという具合に敬語にしている。 これは死んだ者に対しては特に敬語を使ったらしく、その他の人麿の歌にも例がある。 この一首は亡妻を悲しむ心が 極 ( きわ )めて切実で、ただ一気に詠みくだしたように見えて、その実心の渦が中にこもっているのである。 「求めむ」と云ってもただ尋ねようというよりも、もっと覚官的に人麿の身に即したいい方であるだろう。 なお、人麿の妻を悲しんだ歌に、「 去年 ( こぞ )見てし秋の月夜は照らせども相見し 妹 ( いも )はいや年さかる」(巻二・二一一)、「 衾道 ( ふすまぢ )を 引手 ( ひきて )の山に妹を置きて山路をゆけば生けりともなし」(同・二一二)がある。 共に切実な歌である。 二一一の第三句は、「照らせれど」とも訓んでいる。 一周忌の歌だろうという説もあるが、必ずしもそう厳重に 穿鑿 ( せんさく )せずとも、今秋の清い月を見て妻を追憶して歎く趣に取ればいい。 「衾道を」はどうも枕詞のようである。 「引手山」は不明だが、 春日 ( かすが )の 羽易 ( はがい )山の中かその近くと想像せられる。

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山形の不易流行|「変わらないもの」と「変わりゆくもの」

父母 が 頭 かき 撫で 幸 く あれ てい ひし 言葉 ぜ 忘れ かね つる

気になる歌人/歌 気になる歌人/歌 このページは何気なく目にした歌のなかからいろいろと詮索したくなる歌人を取り上げ、メモした内容のあくまでも私個人の記録です。 気になる歌人の生い立ち、生き方などを調べ、気に入った歌を載せていこうと思います。 例えば「西行」についてインターネット検索すると、相当の情報が得られます。 学者でも専門家でもないので自分で理解できる程度のことで、簡単なメモ程度のことで充分かと。 あくまで自分の気になる歌、好きな歌 百人一首からも気に入った歌を選んで載せていこうかと。 ボチボチ気の付いたことから進めてみます。 参考のコーナー 歌人 西行 佐藤 義清(さとう のりきよ)。 平清盛と同年 元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月23日) 生涯(抜粋) 秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9代目の子孫。 佐藤氏は義清の曽祖父公清の代より称し、家系は代々衛府に仕える 16歳ごろから 徳大寺家に仕え、この縁で後にもと主家の実能や公能と親交を結ぶこととなる。 保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年) 鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。 和歌と故実に通じた人物として知られていたが、同6年(1140年) 23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。 出家直後は鞍馬などの京都北麓に隠棲し、天養初年(1144年)ごろ奥羽地方へはじめての旅行。 (27歳) 久安4年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入り、仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。 文治2年(1186年)(69歳)に東大寺勧進のため二度目の奥州下りを行い、伊勢に数年住ったあと河内弘川寺(大阪府河南町)に庵居。 建久元年(1190年)にこの地で入寂した。 かつて「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが 藤原定家や僧 慈円の感動と共感を呼び当時名声を博した。 歴史の勉強ではないが、NHK大河ドラマ「平の清盛」及び源氏の時代へと動乱の時代はややこしく,把握しておかなければならない。 保元の乱、平治の乱で平家の世になり、その後「源 頼朝」の鎌倉幕府までの経緯など、飛鳥、奈良、平安時代の勉強が、西行を理解するうえで必要になってきた。 弘法大師と西行の関係も知る必要が。 近場の「修禅寺」も弘法大師が開祖で、「独鈷の湯」は弘法大師が掘り当てているらしい。 空海の生涯を読んでみたのですが、出生からして神がかり的なこともあり、何処までが本当か疑問な点もある。 当時の歴史と仏教とは切り離して考えることは出来ない。 少し勉強してみたい気がする。 歌に対する心のあり方は 1189年(71歳)、西行は京都高尾の神護寺へ登山する道すがら、まだ少年だった明恵上人に、西行自身がたどり着いた集大成ともいえる和歌観を語っている。 「歌は即ち如来(仏)の真の姿なり、されば一首詠んでは一体の仏像を彫り上げる思い、秘密の真言を唱える思いだ」。 「 和歌はうるはしく詠むべきなり。 古今集の風体を本として詠むべし。 中にも雑の部を常に見るべし。 但し古今にも受けられぬ体の歌少々あり。 古今の歌なればとてその体をば詠ずべからず。 心にも付けて優におぼえん其の風体の風理を詠むべし」・・・古今集について調べてみよう 「和歌はつねに心澄むゆゑに悪念なくて、後世 ごせ を思ふもその心をすすむるなり」(『西行上人談抄』)。 「もののふの里 葛山」 のページで紹介している「景ヶ島にある依京寺」は空海が開祖らしい。 そこに西行の手植えの松と歌があり空海と西行とのかかわりがある。 依京寺の案内板に( 依京寺にある景ヶ島之図にはお手植えの松が描かれている) ひさたえて 我が後の世を 問へよ松 あとしのぶべき 人もなき身を 某HPより 弘法大師ゆかりの地に庵を結び、西行は自然に親しみをこめて呼びかける。 讃岐国善通寺にて 久にへて我が後の世を とへよ松 跡したふべき 人もなき身ぞ 以上同じ歌だが、はたしてこの歌は依京寺の手植えの松を読んだのだろうか。 疑問 平成24年2月3日記 最近、東海地震と連動して富士山が噴火するとか、言われ始めています。 この頃(冬)の富士山は意図してみなくても毎日目にすることの出来る時期です。 私の歌の中にもついつい富士山を入れてしまいます。 西行はどんな富士を詠んでいるか気になり、そこで富士を詠んだ歌をネットで検索してみました。 けぶり立つ 富士に思ひの あらそいて よだけき恋を するがへぞ行く 注釈 「よだけき」 仰々しい、おおげさ 「たけき」 猛々しい 「 するが 」は恋を する と 駿河を掛けている。 富士山は煙を吐いていたんだ。 掛詞にする場合、ひらがなで書くのかな。 風になびく 富士の煙の 空に消えて ゆくえも知らぬ わが思ひかな この歌の解釈は以下の様らしい。 某HPより 「この明澄でなだらかな調べこそ、西行が一生をかけて到達せんと した境地であり、ここにおいて自然と人生は完全な調和を形づくる。 万葉集の山部赤人の富士の歌と比べてみるがいい。 その大きさと美しさにおいて何の遜色もないばかりか、万葉集以来、脈々と生きつづけたやまと歌の魂の軌跡をそこに見る思いがする。 」 (新潮社版 白州正子氏著「西行」から抜粋) 「東海の広大な眺望にふり仰いだ富士の頂から立ちのぼって大空にかすれ消えてゆく噴煙のさまは万感に満ちた西行の胸郭を解放したにちがいない。 「行方も知らぬ」は、富士の煙であるのとともに西行の胸に湧いては消え消えては湧くといった、とどまることのない思念であって、それは来し方行く方を自分自身に対しても問うのである。 」 (河出書房新社刊 宮柊二氏著「西行の歌」から抜粋) この境地は次の歌にも、見受けられます 心なき 身にもあはれは しられけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ 某HPより 「俊成が千載集に採らなかった理由は何か。 思うに、彼は下句のこの景を賞しつつも、作者自身の意識や姿勢をあからさまに表明したこの上句に対して、反撥めいたものを感じたのではないであろうか。 (中略)上句は・・・説明的である。 ・・・いはば押し付けのようなものが感じられる。 (中略)西行にとっては、どうしてもこのように自己の心情を説明しないことにはすまなかったのであろう。 彼にとっては風景の描写は(鴫立つ澤の秋の夕暮)という下句だけで十分なのであって、問題はそれに向う(心なき身)である自身の(心)にあったのだろう。 某注釈では・・・「物の情趣を解さない身」「煩悩を去った無心の身」の二通りの解釈に大別できよう。 前者と解すれば出家の身にかかわりなく謙辞の意が強くなる。 願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月の頃 辞世の歌かと思ったらなくなる10年前のものらしい。 当時の人は「如月の望月」でお釈迦様の亡くなった日が連想されるのか。 (牧水) 聞きゐつつ たのしくもあるか 松風の 今は夢とも うつつともきこゆ の歌をついつい思い出す。 来む世には 心のうちにあらはさむ あかでやみぬる 月の光を 来世では心のなかにあらわそう 満足いかないままでたえてしまった月の光を 「願はくは」と「来む世には」の二首は 『御裳濯河歌合』の七番に載せられている。 『御裳濯河歌合』は歌合の形態をとった西行の自撰歌集である。 西行が晩年期に撰んだ歌のなかにこれら二首が並んである。 (「来む世には」の)一首で西行は、 この世で存在的にとらえていた月を、 来世では「心の中にあらわす」、すなわち心に月を宿らすこと、 内面的に月をとらえて、月による心的境地を築きあげよう という月輪観の深い希求をあらわしているのである。 西行の歌の本質は やはり以下の様らしい 生きていく人間の心、このわかりづらく、どうにもとらえ難いものを生涯にわたって追求し、それを歌にした。 そこに西行の傑出した歌人としての特異さがあり、その歌は古びず、今に至るまで多くの人に追慕され、愛されている 鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて いかになりゆくわが身なるらむ うき世を振り捨てて今こうやって鈴鹿山を越えていって いるが、このわが身は一体どうなってしまうのだろうか 西行出家時の歌 平成24年3月11日記) 西行出家の動機は色々臆されている。 平成24年NHK平清盛ドラマでは歌会などを通して仲を深めた鳥羽院の妃・待賢門院(崇徳天皇の母)と一夜の契りを交わしたが、それを詮索され妻子と別れて出家したことになっていた。 その時の歌も紹介されていた。 世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人をぞ 捨つるとはいふ 出家した人は悟りや救いを求めており本当に世を捨てたとは言えない。 出家しない人こそ自分を捨てているのだ 何か問答集みたいな歌である。 西行出家後の足跡 出家後小倉山、鞍馬山、吉野山、高野山(ここに三十年、真言霊場)弘川寺(ひろかわでら)で没(行基、空海もこの寺で修行) 出来たら以上の場所を歩いてみたい。 西行は空海の何かを求めていたように思えるのだが。 空海とはどんな人かあらためて調べてみます。 弘川寺を調べると・・・ 役小角によって創建されたと伝えられ、676年にはこの寺で祈雨法が修せられて天武天皇から山寺号が与えられたという。 平安時代の弘仁3年(812年) 空海によって中興され、文治4年(1188年)には空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願している。 翌、文治5年(1189年)には 空寂を慕って歌人と知られる西行法師がこの寺を訪れ、この地で没している。 ・・・西行は 空寂を慕ってこの寺を訪れたとある 空海ではないようだが。 400年余のスパンがあるからか。 空寂とは 万物はみな実体のないものであり、生死もまた仮のものであるということ。 執着・欲望などの煩悩 ぼんのう を消し去った悟りの境地。 えらい名前の坊さんのようです。 西行の出家はやはり悟りを目指したものでは、そして空海の信ずる仏門に向かい、その中で歌を詠むことにより己を表現したのでは。 そうすれば西行の歌を詠む姿勢、歌自体に空寂を求めているのが解かり納得できます。 この結論はあまりにも単純かな。 も少し調べていきます。 新古今和歌の最後の歌(平成26年10月21日記) 新古今和歌の最期の歌(1979)は西行の歌で終わっている。 新古今和歌集の月に絡んだ歌が多く、ここに抜粋してみました。 花(桜)に関する歌も多く、それもおいおいここに取り上げてみようかと思います。 1979 闇晴れてこころのそらにすむ月は 西の山辺や近くなるらむ 煩悩の闇も晴れ、心の中には清浄な真如の月が宿っていることを自覚した西行法師の自信が表現されているのである。 その上で、西方浄土に極楽往生というゆるぎなき自己完成の姿を見ているのである。 次の歌と比較しても、その辺の心境の変化がうかがえる 来む世には 心のうちにあらはさむ あかでやみぬる 月の光を 以下に月の入った歌を列挙しました。 各々の歌の背景、詞書がなければ歌の本当の意味は解らないことを西行の歌を詠むにつけつくづく思いました。 570 月を待つたかねの雲は晴れにけり こころあるべき初時雨かな 603 をぐら山ふもとの里に木の葉散れば 梢に晴るる月を見るかな 885 君いなば月待つとてもながめやらむ 東のかたの夕暮れの空 937 都にて月をあはれと思ひしは 数にもあらぬすさびなりけり 938 月見ばと契りおきてしふるさとの 人もや今宵袖ぬらすらむ 1185 おもかげの忘らるまじきわかれかな なごりを人の月にとどめて 1267 月のみやうはの空なる形見にて 思ひも出ではこころ通はむ 1268 隈もなき折りしも人を思ひ出でて こころと月をやつしつるかな 1269 物思ひて眺むる頃の月の色に いかばかりなるあはれ添ふらむ 1530 月を見て心うかれしいにしへの 秋にもさらにめぐり逢ひぬる 1631 山かげに住まぬ心はいかなれや 惜しまれて入る月もある世に 1680 これや見し昔住みけむ跡ならむ よもぎが露に月のかかれる 1779 月のゆく山に心を送り入れて やみなる跡の身をいかにせむ 1845 ねがはくは花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ 1878 神路山月さやかなる誓ありて 天の下をば照らすなりけり 1879 さやかなる鷲の高嶺の雲井より 影やはらぐる月よみの森 追 以下某ホームページより 年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山 こんなに年老いて、この小夜の中山を再び 越えることができると思っただろうかそれなのに今またこうして小夜の中山を越えようとは、まことに命があるおかげであるよ。 この歌には、三十前後の初度の陸奥の旅と、今回 の六十九歳という高齢での再度の旅、その二つが、 久しい時間を経て、一つに把握され、自己が自然に とりこまれ、自然と一体化した安らかさが感じられ 、人生的な深い味わいのある作品となっている。 さやのなかやま(小夜の中山) 遠見国の歌枕。 現在の静岡県掛川市にある峠。 箱根とともに東海道の難所の一つである。 「風になびくーーー」と「年たけてーーー」の二首 を「自然と人間とを一如に観じる宗教的に至り得た 境地」「求めてやまない求道心と文学的資質とが 一つになっていて観念的に割り切れず生きつづけて いる人間の声」。 さらにこの歌 は「西行の文学を象徴する意味をもち」「いかにも 健康的で明るいことである。 老いの艶という味わい が濃厚である。 [没]建仁2 1202. 京都 平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人。 僧俊海の子。 俗名,藤原定長。 伯父の藤原俊成の養子となり,官は中務少輔となったが,応保2 1162 年定家が誕生したので家督を譲って出家し,寂蓮と称した。 以後歌道に専念し,和歌所寄人となり,『新古今和歌集』の撰者にもなった。 勅撰集に 117首入集。 能書家という伝称はないが,書は江戸時代に古筆として愛好され,切目王子社,滝尻王子社などで詠んだ『熊野懐紙』や消息が現存する。 このほか『右衛門切』『元暦校本万葉集巻六』『西本願寺三十六人集兼輔集』『田歌切』など,寂蓮筆と伝称される書跡があるが確証はない。 家集『寂蓮法師集』。 「風体あてやかにうつくしきさまなり。 よわき所やあらむ。 小野小町が跡をおもへるにや。 美女のなやめるをみる心ちこそすれ」(歌仙落書)。 「寂蓮は、なほざりならず歌詠みし者なり。 あまり案じくだきし程に、たけなどぞいたくは高くはなかりしかども、いざたけある歌詠まむとて、『龍田の奥にかかる白雲』と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき。 折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、真実の堪能と見えき」(後鳥羽院御口伝。 以上が寂蓮の評価の参考になる。 新古今和歌集から抜粋してみる。 今はとてたのむの雁もうちわびぬ朧月夜の明けぼのの空 (新古58) 通釈】今はもう北の国へ帰らなければならない時だというので、田んぼにいる雁も歎いて鳴いたのだ。 朧ろ月の春の夜が明けようとする、曙の空を眺めて…。 葛城や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲 (新古87) 【通釈】葛城の高間山の桜が咲いたのだった。 竜田山の奧の方に、白雲がかかっているのが見える。 思ひたつ鳥はふる巣もたのむらんなれぬる花のあとの夕暮 (新古154) 【通釈】谷へ帰ろうと思い立った鶯は、昔なじみの巣をあてにできるだろう。 しかし家を捨てた私は、花のほかに身を寄せる場所もなく、ただ途方に暮れるばかりだ。 散りにけりあはれうらみの 誰なれば花の跡とふ春の山風 (新古155) 【通釈】桜は散ってしまったよ。 ああ、この恨みを誰のせいにしようとして、花の亡き跡を訪れるのだ、山から吹く春風は。 花を散らしたのは、ほかならぬお前ではないか、春風よ。 暮れてゆく春の 湊はしらねども霞におつる宇治の柴舟 (新古169) 【通釈】過ぎ去ってゆく春という季節がどこに行き着くのか、それは知らないけれども、柴を積んだ舟は、霞のなか宇治川を下ってゆく。 さびしさはその色としもなかりけり 槙立つ山の秋の夕暮 (新古361) 【通釈】なにが寂しいと言って、目に見えてどこがどうというわけでもないのだった。 杉檜が茂り立つ山の、秋の夕暮よ。 月はなほもらぬ 木の間も住吉の松をつくして秋風ぞ吹く (新古396) 通釈】住吉の浜の松林の下にいると、月は出たのに、繁り合う松の梢に遮られて、相変わらず光は木の間を漏れてこない。 ただ、すべての松の樹を響かせて秋風が吹いてゆくだけだ。 野分せし小野の草ぶし荒れはてて 深山にふかきさを鹿の声 (新古439) 【通釈】 私が庵を結んでいる深山に、今宵、あわれ深い鹿の声が響いてくる。 先日野分が吹いて、草原の寝床が荒れ果ててしまったのだ。 物思ふ袖より露やならひけむ秋風吹けばたへぬものとは (新古469) 【通釈】物思いに涙を流す人の袖から学んだのだろうか、露は、秋風が吹けば堪えきれずに散るものだと。 ひとめ見し野辺のけしきはうら枯れて露のよすがにやどる月かな (新古488) 【通釈】このあいだ来た時は人がいて、野の花を愛でていた野辺なのだが、秋も深まった今宵来てみると、その有様といえば、草木はうら枯れて、葉の上に置いた露に身を寄せるように、月の光が宿っているばかりだ。 たえだえに里わく月の光かな 時雨をおくる夜はのむら雲 (新古599) 【通釈】月の光が、途切れ途切れに里の明暗を分けているなあ。 時雨を運び地に降らせる、夜半の叢雲の間から、月の光が射して。 ふりそむる今朝だに人の待たれつる深山の里の雪の夕暮 (新古663) 【通釈】雪が降り始めた今朝でさえ、やはり人の訪問が待たれたよ。 今、山奥の里の夕暮、雪は深く降り積もり、いっそう人恋しくなった。 この雪では、誰も訪ねてなど来るまいけれど。 老の波こえける身こそあはれなれ今年も今は末の松山 (新古705) 【通釈】寄る年波を越え、老いてしまった我が身があわれだ。 今年も歳末になり、「末の松山波も越えなむ」と言うが、このうえまた一年を越えてゆくのだ。 思ひあれば袖に蛍をつつみても言はばや物をとふ人はなし (新古1032) 【通釈】 昔の歌にあるように、袖に蛍を包んでも、その光は漏れてしまうもの。 私の中にも恋の火が燃えているので、胸に包んだ想いを口に出して伝えたいのだ。 この気持ちを尋ねてくれる人などいないのだから。 ありとても逢はぬためしの名取川くちだにはてね瀬々の 埋 むもれ木 (新古1118) 【通釈】生きていても、思いを遂げられない例として浮き名を立てるだけだ。 名取川のあちこちの瀬に沈んでいる埋れ木のように、このままひっそりと朽ち果ててしまえ。 うらみわび待たじ今はの身なれども思ひなれにし夕暮の空 (新古1302) 【通釈】あの人のつれなさを恨み、嘆いて、今はもう待つまいと思う我が身だけれど、夕暮れになると、空を眺めて待つことに馴れきってしまった。 里は荒れぬ空しき床のあたりまで身はならはしの秋風ぞ吹く (新古1312) 【通釈】 あの人の訪れがさっぱり絶えて、里の我が家は荒れ果ててしまった。 涙川身もうきぬべき寝覚かなはかなき夢の名残ばかりに (新古1386) 【通釈】恋しい人を夢に見て、途中で目が覚めた。 その儚い名残惜しさに、川のように涙を流し、身体は床の上に浮いてしまいそうだ。 なんて辛い寝覚だろう。 高砂の松も昔になりぬべしなほ行末は秋の夜の月 (新古740) 【通釈】高砂の老松も、いつかは枯れて昔の思い出になってしまうだろう。 その後なお、将来にわたって友とすべきは、秋の夜の月だ。 尋ねきていかにあはれと眺むらん跡なき山の嶺のしら雲 (新古836) 【通釈】遠く高野までたずねて来て、どんなに悲しい思いで山の景色を眺めておられることでしょう。 亡き兄上は煙となって空に消え、ただ山の峰には白雲がかかっているばかりです。 立ち出でてつま木折り 来 し片岡のふかき山路となりにけるかな (新古1634) 【通釈】庵を立ち出ては薪を折って来た丘は、 住み始めた頃に比べると、すっかり木深い山道になったものだ。 数ならぬ身はなき物になしはてつ 誰ためにかは世をも恨みむ (新古1838) 【通釈】物の数にも入らない我が身は、この世に存在しないものとして棄て果てた。 今はもう、誰のために世を恨んだりするだろうか。 紫の 雲路にさそふ琴の 音にうき世をはらふ嶺の松風 (新古1937) 【通釈】浮世の迷妄の雲を払う峰の松風が吹き、紫雲たなびく天上の道を極楽浄土へと誘う琴の音が響きあう。 これや此のうき世のほかの春ならむ花のとぼそのあけぼのの空 (新古1938) 【通釈】これこそが、現世とは別世界にあると聞いていた極楽の春なのだろう。 美しい浄土の扉を開くと、曙の空に蓮華の花が咲き満ちている。 以上の歌を通して 月や空や風や雲など一つのパターンで謡われている。 歌の状況は解らぬが 僧侶からの視点からか、日々の景色や気候の変化を敏感に、あの世に通じる気持ち、この世のはかなさなどが多く見受けられる。 生きとし生けるものの諸行無常か?西行に非常に近い歌い方。 参考にしたい。 藤原定家 平成29年11月 記 色々と昔の歌人を調べれば、一人欠けていた気がする。 僧侶の歌はなんとなく把握できた気がするが、宮廷歌人の心など知らねばと和泉式部、式子内親王の女流歌人は以前終わったが公家の一人として藤原定家を調べる必要もありそうだ。 ここに簡単にまとめてみました。 (ウイキペデイアを主に) 応保2年(1162年)生誕 仁治2年8月20日(1241年9月26日死没 藤原北家御子左流で藤原俊成の二男。 最終官位は正二位権中納言。 京極殿または 京極中納言と呼ばれた。 法名は 明静(みょうじょう)。 歌人の寂蓮は従兄、太政大臣の西園寺公経は義弟にあたる。 平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、御子左家の歌道における支配的地位を確立。 日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきた歴史がある。 2つの勅撰集、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進。 ほかにも秀歌撰に『定家八代抄』がある。 歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。 人物 「 美の使徒」、「 美の鬼」 、「 歌聖」 、「 日本最初の近代詩人」などと呼ばれることがある日本を代表する詩人の一人。 美への執念は百人一首の選歌に見られるように晩年まで衰えることがなかった。 玉葉によると文治元年11月に少将雅行と言い争い、脂燭 ししょく で相手を打ち除籍となり、古今著聞集によると父俊成から和歌によって取りなして貰い、後鳥羽天皇から許しを得たとあるほど 気性が激しく、また後鳥羽院御口伝によると「さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさ/\と思ひたりし上は、ましてや余人の歌沙汰にも及ばず」、「傍若無人、理 ことわり も過ぎたりき。 他人の詞 ことば を聞くに及ばず」と 他人の和歌を軽んじ、他人の言葉を聞き入れない強情さを指摘されている。 また、どんなに後鳥羽院が褒めても、自詠の左近の桜の述懐の歌が自分では気に入らないからと、新古今に入撰することに頑強に反対するなど、折り紙付きの強情な性格だった。 順徳天皇歌壇の重鎮として用いられるも、承久二年の内裏歌会への出詠歌が後鳥羽院の勅勘を受け、謹慎を命じられた。 しかし、この謹慎の間、さまざまな書物を書写した結果、多くの平安文学が後世に残ったと言える。 歌風 (定家の和歌の性格について風巻景次郎著『新古今時代』の「『拾遺愚草』成立の考察」に要約より) 定家は平安朝生活の伝統を多分に承け、それにふさわしく繊細な神経で夢の世界を馳せ、その天性によって唯美的な夢の文学を完成した。 しかし表現せんとするものが縹渺 ひょうびょう として遥かであるほど、それを生かすには辞句の選択、着想の考案のために心を用いることは大でなければならぬ。 そして定家はそれに耐えるほどの俊敏な頭脳をもっていた。 かれの歌の成功はこの頭脳の力にある。 しかしまた、その失敗も頭脳のためであった。 かれの歌の大半は、優艶なる夢をいかにして表現しようかと努力した理知の影を留め、その表現のために尽くした努力はその措辞 そじ の上に歴々として現れた。 かれはじつに 夢の詩人で、理知の詩人で、そして言葉の詩人であった。 「定家美 妖艶 のなかには、多くの非正常的・怪奇的なものがある。 あまりに華麗幻燿にすぎて、人を誑 たぶら かさずにはおかないこと、つよい阿片性・麻薬性があって、人を麻痺、昏酔させる毒性をもつこと、あまりにつよい性欲性・獣性があって、人を頽廃・好婬に誘わずにおかないこと、つよい幽鬼性・悪魔性があって、人を悪魔的世界に誘おうとすること、死や亡びのもつ非生命性・空無性・滅亡性等に美を感じさせ、死や亡びのなかに投身させようとする性質をもつこと等々がそれである」。 谷山茂は以下のように指摘 「定家が恋歌を最も得意としたということは、彼を知る上で極めて重要な事実である。 「定家などは 智慧の力をもってつくる歌作り也」 『井蛙抄』 と自認していたというが、その智巧的態度に立って、幻想世界を縦横に描き出そうとする定家にとっては、 現実にしばられ易い四季自然歌よりも、智巧 利巧 や空想 そらごと の恣意を多分に許容される恋歌のほうが得意であったことは、全く当然のことなのである。 すなわち、定家ーー少なくとも新古今撰進期における定家をして、恋歌を本領とさせたのは、その 恋の体験の深さや広さではなくて、彼の智巧的超現実的な芸術至上主義の魔力的意欲であるというべきである。 そういう点では、さすがの 俊成も西行も家隆も俊成女 としなりのむすめ も、遥かに遠く及ばない古今独歩の境地を極めているのである。 しかも、そういう行き方が、恋歌からさらに四季自然歌にまで拡充されているのだから、全く 驚くべき魔術師である。 そして、新古今の歌人たちは、ほとんど例外なく、及ばぬながらにも、多かれ少なかれ、一応はこの道に追従していったのである 春 以上の文面で性格、歌風が見て取れる。 実際の歌を取り上げてみる。 (新古今和歌集より) 大空は梅のにほひにかすみつつ曇りもはてぬ春の夜の月 (新古40) 通釈】広大な空は梅の香に満ちておぼろに霞みながら、すっかり曇りきることもない春の夜の月よ。 梅の花にほひをうつす袖のうへに軒もる月のかげぞあらそふ (新古44) 【通釈】梅の花が匂いを移し染める袖の上に、軒を漏れてくる月影も涙に映って、香りと光が競い合っている。 桜色の庭の春風あともなしとはばぞ人の雪とだに見む (新古134) 通釈】桜の色に染まって吹いた庭の春風は、もはや跡形もない。 今や花が地面に散り敷いているだけで、人が訪れたならば、せめて雪とでも見てくれようが。 春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空 (新古38) 【通釈】春の夜の、浮橋のように頼りない夢が、遂に中途で絶えてしまって、空を見遣れば、横に棚引く雲が峰から別れてゆく。 夏 玉鉾 たまぼこ の道ゆき 人 びと のことづても絶えて程ふる五月雨の空 (新古232) 【通釈】あの人が通りすがりの人に託す伝言も絶えて久しい、長く降り続ける五月雨の空よ。 夕暮はいづれの雲のなごりとて花橘に風の吹くらむ (新古247) 【通釈】夕暮れ時になると、庭の花橘に風が吹き、しきりと昔を偲ばせる。 一体如何なる雲のなごりを運んで来たというので、これほど昔を懐かしませる香りがするのであろう。 秋 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮 (新古363) 【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。 海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。 ひとりぬる山鳥の尾のしだり尾に霜おきまよふ床の月影 (新古487) 【通釈】独りで寝ている山鳥の尾、その垂れ下がった尾に、霜が置いているのかと迷うばかりに、しらじらと床に射す月影よ。 時わかぬ波さへ色にいづみ川ははその 杜 もり に嵐ふくらし (新古532) 【通釈】季節によって違いはないはずの波さえ、秋が色に顕れている泉川よ。 上流の柞の森に嵐が吹いているらしい。 冬 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮 (新古671) 【通釈】馬を停めて、袖に積もった雪を払う物陰もありはしない。 佐野の渡し場の雪降る夕暮どきよ。 待つ人の麓の道はたえぬらむ軒端の杉に雪おもるなり (新古672) 【通釈】待つ人が通って来る麓の道は行き止まりになってしまったのだろう。 我が家の軒端の杉に雪が重みを増しているようだ 恋 年もへぬ祈る契りははつせ山をのへの鐘のよその夕暮 (新古1142) 【通釈】何年も経った。 長谷観音に祈る恋の成就の願掛けは、これ以上続ける甲斐もない。 折から山上の鐘が入相を告げるけれど、私にはもはや無縁な夕暮時であるよ。 あぢきなくつらき嵐の声も憂しなど夕暮に待ちならひけむ (新古1196) 【通釈】苦々しくも、激しい嵐の声さえ厭わしい。 どうして夕暮に人を待つ習慣ができたのだろう。 帰るさのものとや人のながむらん待つ夜ながらの有明の月 (新古1206) 【通釈】よそからの帰り道に眺めるものとして、あの人は今頃この有明の月を眺めているのだろう。 忘れずは馴れし袖もや氷るらむ寝ぬ夜の床の霜のさむしろ (新古1291) 【通釈】私から心を移していないのなら、馴れ親しんだあの人の袖も、今頃氷りついているだろうか。 眠れずに過ごす夜の寝床、そこに敷いた筵には、いちめんに涙の霜が置いている。 消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの杜の下露 (新古1320) 【通釈】消えようにも消えきれず、苦しんでいたよ。 むせぶとも知らじな心かはら屋に我のみ消たぬ下の煙は (新古1324) 【通釈】私がいくら咽ぼうとも、あの人は知るまいな。 瓦屋に消さずにある煙のように、心変わらず、ひそかに燃やす恋情は私ばかりが消さずにいることは。 色などないはずなのに、こんなにもあわれ深く身に染みとおる風が。 かきやりしその黒髪のすぢごとにうち臥すほどは面影ぞたつ (新古1390) 【通釈】独り横になる折には、あの人の面影が鮮やかに立ち現われる。 我が手で掻きやったその黒髪が、ひとすじごとにくっきり見えるかのように。 わざわざ尋ねて行っても、潮が引いたあとの潟には貝もないように、あの人の愛情は干上がってしまって、何を言う甲斐もない。 哀傷 たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人こふる宿の秋風 (新古788) 【通釈】露も涙も、ほんの一瞬も留まることはない。 亡き人を恋しく思い出す宿に吹きつける秋風のために。 旅 こととへよ思ひおきつの浜千鳥なくなく出でし跡の月かげ (新古934) 【通釈】言葉をかけてくれよ。 都にもいまや衣をうつの山夕霜はらふ蔦の下道 (新古982) 【通釈】故郷の都でも、今頃妻が私を慕い、衣を 擣 う っているだろうか。 私は宇津の山で、夕霜を払いつつ蔦の下道を行く。 雑 忘るなよ宿るたもとはかはるともかたみにしぼる夜はの月影 (新古891) 【通釈】忘れないでくれ。 藻塩くむ袖の月影おのづからよそに明かさぬ須磨の浦人 (新古1557) 【通釈】藻塩のために海水を汲む袖はしとどに濡れ、その上に月の光が映じて、須磨の浦の海人はおのずと月をよそにすることなく一夜を明かす。 契りありてけふみや河のゆふかづら永き世までにかけてたのまむ (新古1872) 【通釈】前世からの因縁があって、今日伊勢の 外宮 げくう をお参りすることができた。 木綿鬘をかけ、久しい代々までかけて、ご加護をお頼み申そう。 時代が違い当時の生活習慣が違えば中々和歌を理解するのは容易ではないと改めて感じるものがある。 現代の科学の時代、情報化の世界、AIの時代にもなってくる現代にいにしえびとがどんな歌を詠んでいたかを察することは日本人の心のふるさとをかいま見る手段にはなる。 それが現代を生きるものにとり心の潤い、「人間とはなんだ?」という根本的な問いに対する歴史からの回答が含まれているかも。 定家の芸術至上主義もそんな視点で見て行けば歌の根本が理解できてくるかも。 当時の公家の心の在り様も垣間見ることが出来るかも。 「歌とはなんだ?」自分なりに把握できればよいが。 明和五年 1768 、儒者大森子陽の狭川塾に入り、漢学を学ぶ。 その後名主見習となるが、安永四年 1775 、十八歳の時、隣町尼瀬の曹洞宗光照寺に入り、禅を学ぶ。 同八年(二十二歳)、光照寺に立ち寄った備中国玉島曹洞宗円通寺の大忍国仙和尚に随って玉島に赴く。 剃髪して良寛大愚と名のったのはこの頃のことかという(出家を十八歳の時とする説もある)。 以後円通寺で修行し、寛政二年 1790 、三十三歳の時、国仙和尚より印可の偈を受ける。 翌年国仙は入寂し、良寛は諸国行脚の旅に出る。 同七年、父以南は京都桂川に投身自殺。 京都で法要の列に加わった良寛は、その足で越後国に帰郷し、出雲崎を中心に乞食生活を続けた。 四十七歳の頃、国上山 くがみやま にある真言宗国上寺 こくじょうじ の五合庵に定住。 近隣の村里で托鉢を続けながら、時に村童たちと遊び、或いは詩歌の制作に耽り、弟の由之や民間の学者阿部定珍 さだよし らと雅交を楽しんだ。 またこの頃万葉集に親近したという 文化十四年 1817 、江戸にのぼり、さらに東北各地を巡遊。 文政九年 1826 、自活に支障を来たし、三島郡島崎村の能登屋木村元右衛門方に身を寄せ、屋敷内の庵室に移る。 同年、貞心尼(当時二十九歳)の訪問を受け、以後愛弟子とする。 天保元年 1830 秋、疫痢に罹り、翌年一月六日、円寂。 七十四歳 貞心尼 越後長岡藩士奥村五兵衛の娘。 俗名マス。 十六歳頃、望まれて医師関長温に嫁すが、二十代で夫と離別し、やがて柏崎で剃髪して貞心を称す。 文政十年 1827 頃、古志郡福島村(現在長岡市)の閻魔堂に独居する。 この頃良寛を知ったらしく、敬慕の思いを手紙にしたため、のち島崎の庵に良寛を訪ねた。 時に貞心尼二十九歳、良寛六十九歳。 以後、良寛の死までの五年間、たびたび消息を通わせ、また庵を訪問し合う。 天保元年 1830 歳末、良寛危篤の報を受け、島崎の庵に駆けつけたが、年が明けて正月六日、良寛は示寂した。 天保六年 1835 、良寛の歌を集めて家集『はちすの露』を編む 「白隠の里」 松陰寺の境内に良寛の書の碑とその内容を解説した案内板 が建っており、その時はたいして気にならなかったが、良寛の経歴を調べて行くうちになんで白隠と良寛の接点があるのか興味が湧く。 白隠は1625~1768良寛は1758~1831で白隠がなくなった年には良寛は11歳ほど。 直接の交流はなさそう。 簡単にその内容をかいつまんで載せてみる 君看雙眼色 不語似無憂 読み きみ看よ双眼の色、語らされば憂いなきに似たり 語訳 妾の二つの眼ををよくよく看てください。 何も言ってくれないと憂い(その気)がないように見えますよ 白隠禅師の著「槐安国語」巻五にある語 「千峰雨霄露光冷」千峰雨晴れて露光冷じ の句につけた白隠下語の一部 歌として 降る雪の、降る雪の、雪の花を吾が後の世の家づとにせん家づとにせん 沼津良寛さまの一首 (降りに降る雪の花を来世の私のためにその家のおみやげにしたいものだ、おみやげにしたいものだ) 良寛は白隠に共感してこの語を書いた。 その書は良寛最高傑作の一つでここに白隠と良寛の深い結びつきがうかがえる。 良寛のイメージは子供と遊ぶ 無心な僧侶としかイメージがなかったが、果たしてその真相は、歌を通して少しでもその人物を理解できればと思う。 【 経歴】 生涯をたどる手立ては極めて少ない。 それは良寛が禅僧でありながら、いかに宗派や僧籍にこだわる事なく生きていたかを物語っている 1758年11月2日 越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に生まれた 1768 、儒者大森子陽の狭川塾に入り、漢学を学ぶ 1775 、十八歳の時、隣町尼瀬の曹洞宗光照寺に入り、禅を学ぶ (全国各地に米騒動が頻発した。 越後にも天災・悪疫が襲い、凶作により餓死者を出した。 村人の争いを調停し、盗人の処刑に立ち会わなければならなかった良寛が見たものは、救いのない人間の哀れな世界であった) (1779)22歳の時、良寛の人生は一変する。 玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定める (1790)印加(修行を終えた者が一人前の僧としての証明)を賜る。 翌年、良寛34歳の時「好きなように旅をするが 良い」と言い残し世を去った国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めた (1805)48歳の時、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の 五合庵(一日五合 の米があれば良い、と農家から貰い受けたことからこの名が付けられた)にて書を学ぶ (五合庵の良寛は何事にもとらわれず、何者にも煩わせることもない、といった生活だった。 筍が顔を覗かせれば居間を譲り、子供にせがまれれば、日が落ちるまで鞠付きに興じる。 良寛独自の書法を編み出す。 それは、上手に見せようとするのではなく、「一つの点を打つ」「一つの棒を引く」その位置の僅かなズレが文字の命を奪う。 (1818)61歳の時、乙子神社境内の草庵に居を構えた。 円熟期に達した良寛の書はこの時に生まれている。 70歳の時、島崎村(現長岡市)の木村元右衛門邸内にそれぞれ住んだ。 無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めた。 良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説いた。 その姿勢は一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになった。 1830 秋、疫痢に罹り、翌年一月六日、円寂。 七十四歳 1835 貞心尼、良寛の歌を集めて家集『はちすの露』を編む 書家で生涯寺を持たず、難しい説法はせず、庶民に信頼され、質素な生活や簡単な言葉で仏法を説き人々の共感や信頼を得る。 時代背景は白隠と変わらず、白隠も禅画は有名、臨済宗中興の祖と言われ積極的に仏法を説いたのに対してその生き方は太陽対月か星の如く控えめなものかも そんな気がする。 良寛の歌は愛弟子の貞心尼により、まとめられ、良寛が亡くなった後にも生涯を通して慕い続けたようだ。 二人の関係は師弟であり、愛人のような関係?歌の友? 彼女の四十四歳以後の作を集めた家集『もしほ草』があり、『はちすの露』には良寛との贈答歌がある。 良寛を知るうえで貴重な人物ではあるようだ。 自筆らしき文が何点か掲載され、発行は昭和47年、定価は当時の金額で一万六千円。 BSN新潟放送で出しています。 当時の初任給が3万円程度の時代、立派な本であることですがなんせ書体が崩され私には読めません。 有名な書家とは聞いていたが。 内容は日々の手紙や礼状が年代順に書かれていて当時の時代を想像するのには役立つかもしれない。 オークションで一万円からスタート、落札価格は知らない。 飾っておくだけでも充実感がありそう。 良寛は書物をほとんど人から借りたそうです。 従って書物を持たなかったらしい。 私もほとんどの知識はネットで検索し、本は持たない(もっとも本を買う金が惜しいのが動機なのだけれど) 石川啄木 平成24年1月28日 先日某新聞の住友信託銀行の某相談役のコラムに・・・・・ノーベル物理学賞受賞者「湯川秀樹」が天才として弘法大師、石川啄木、ゴーゴリ、ニュートン、を上げていた。 啄木は西行と共に長く残り、日本を越えて世界性をもつ。 啄木と同じような歌を作りたくなる、そういった歌人が偉いのだと述べ、一番好きな歌を「一握の砂」から選んでいる。 ・・・・・ 以前に石川啄木の歌は眼にしたことがありましたが、自分としては(なんとめそめそした歌を歌う人だ〉と思っていましたが、今回の記事をみて、再度検討してみることにしました。 湯川秀樹さんを信用して(科学者も短歌に造詣があることに注目)。 湯川秀樹さんの好きな歌は いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あいだより落つ 「一握の砂」を一通り読んでみましたが、(青空文庫で、ここ十年本を買ったことがない)読み方が悪いのか今一の感じ。 今のところ気に入った歌をあげて見ますと以下のものでした。 ふるさとの 山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな 石をもて 追はるるごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆることなし 友がみな われよりえらく 見ゆる日は 花を買ひ来て 妻としたしむ 目になれし 山にはあれど 秋くれば 神すまむとか かしこみて見る 秋の声 まづいち早く 耳に入る かかる性もつ かなしむべかり 特に好きな歌は「目になれし 山にはあれど 秋くれば 神すまむとか かしこみて見る」です。 山登りなどしていますが、季節を問はず、時々私もそんな気持ちを抱くときがありますが、秋は格別です。 「神」と「かしこみ」が調子を盛り上げています。 忘れていました。 以下の歌は短歌に興味のないときより、諳んじていました。 たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず 啄木の履歴(概要) 本名 一 1886. 20-1912. 13 享年26歳 今年が 2012年)亡くなった時から百年 岩手県生まれ。 1歳の時に父が渋民村・宝徳寺の住職となり同村が啄木の「ふるさと」になる。 小学校を首席で卒業し、地元では神童と呼ばれる。 19歳(1905年) 処女詩集 『あこがれ』を刊行!一部で天才詩人と評価される。 20歳 小学校の代用教員として働き始める(年末に長女生れる)。 21歳 住職再任運動に挫折した父が家出。 啄木は心機一転を図って北海道にわたり、函館商工会議所の臨時雇い、代用教員、新聞社社員などに就くが、どの仕事にも満足できず、函館、札幌、小樽、釧路を転々とする。 23歳 前年に与謝野鉄幹に連れられて鴎外の歌会に参加したことをきっかけに、雑誌「スバル」創刊に参加。 相変わらず小説は評価されず、失意のうちに新聞の校正係に就職する。 家族の上京後、生活苦から妻と姑との対立が深刻化し、妻が子どもを連れて約一ヶ月実家へ帰ってしまう。 年末に父が上京。 24歳 新聞歌壇の選者に任命されるも、暮らしは依然厳しかった。 それだけに、被告26名中、11名死刑(半世紀後に全員無罪の再審判決)という結果に大きな衝撃を受ける。 この頃の詩稿が死後の詩集 『呼子と口笛』になった。 26歳(1912年) 年明けに漱石から見舞金が届く。 3月に母が肺結核で亡くなり、翌月に啄木もまた肺結核で危篤に陥る。 若山や友人たちが啄木の創作ノートを持って奔走し、第2歌集 『悲しき玩具』の出版契約を結びとる。 啄木が26歳の若さで死に至る最晩年の様子は、親友の金田一京助、若山牧水によって書き残されている。 文学に夢を託した啄木の、貧困の生活との葛藤の生き方が歌の中ににじみ出ている。 そうした中で漱石、牧水、金田一京助、与謝野晶子など、友人、知人の豊富なことに目が行く。 「悲しき玩具」目を通したが、病人の日記、メモの感じで今のところこれと言って気に入った歌はない。 没後100年、行事などに注意しなければ。 牧水は啄木よりも一才年上かな。 私の歌のきっかけになった牧水については色々調べていましたが、記憶が薄れており、再度メモがてらにまとめてみたい。 平成24年5月10日記 先日、朝日新聞「文化の扉」で石川啄木を取り上げていました。 以下、面白いので簡単に内容を書きました。 1.神童時代 やはらかに 柳あおめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けと如くに 5歳 通常より1歳早く小学校に入学、主席で卒業 12歳 盛岡尋常中学校に入学 金田一京助と知り合う 16歳 10月に退学( カンニングがバレる )上京して与謝野鉄幹・晶子と出会う 19歳 第一詩集「あこがれ」を刊行 同郷の堀節子と結婚(披露宴に向かう途中寄り道し、すっぽかす) 2・ 人生修業 東海の 小島の磯の 白浜に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 函館の 青柳町こそ かなしけれ 友の恋歌 矢車の花 20歳 3月、渋民村の代用教員となる 12月長女京子生まれる 21歳 4月、小学校を免職される(校長を辞めさせようとして自分が止める羽目に) 5月、函館に渡り、、宮崎郁雨と出会う。 以後北海道を転々として代用教員、新聞記者などをする 22歳 4月、家族を函館に残して上京 5月、本郷菊坂の金田一京助と同じ下宿に住み小説を書く 部屋代を滞納金田一が自分の蔵書を売り 一緒に別の下宿に引っ越す 3・生活者啄木 皮膚がみな 耳にてありき しんとして 眠れる街の 重き足音 京橋の 滝山町の 新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな 23歳 3月、東京朝日新聞に公正係として就職(月給を前借しては浅草で遊興した) 6月、妻子と母が上京(借金の額、現在の金額で680万円以上) 24歳 9月、「朝日歌壇」選者になる(10月、長男真一誕生後、まもなく死亡) 12月1日、第一歌集「一握の砂」刊行 4・晩年 庭のそとを 白き犬ゆけり ふりむきて 犬を飼はむと 妻にはかれる 石川は ふびんな奴だ ときにかう 自分でいひて かなしみてみる 25歳 体調を崩し、2月に慢性腹膜炎と診断される 26歳 肺結核で死去。 6月「悲しき玩具」刊行 啄木を称して・・・泣いたり悲しんだりと感傷的で貧しさの中で早世した不遇の詩人のイメージがある。 実は「天才気取りで生意気な、明るい浪費家であった」と言うことが書かれている。 金田一京助は一時自分の給料で啄木を養い、函館の文学仲間の宮崎郁雨は啄木上京後、残された家族の面倒をみた。 師の与謝野鉄幹、晶子もかわいがった。 啄木が 嘘を言う時 春かぜに 吹かるる如く おもいしもわれ 啄木は本当は小説家になりたかった。 小説は売れず、行き詰った時に書いたのが短歌だった。 啄木は短歌を(玩具=おもちゃ)と軽蔑し続けた。 (注「歌は色々」では短歌につて、将来残って行くか、様式などについて述べている)「それが新境地をもたらし、立派な歌を読む気がないから、飾らない言葉で何げない出来事や心の動きを詠うことが出来た。 青春の文学だった短歌を、働く人々の日常の心の動きをすくい取るものへ広げ、100年後の今に続く短歌のスタンダードを作った」と某歌人は述べている。 歌集は「一握の砂」「悲しき玩具」だけだけれど、そこには青春、病気、貧乏、望郷、都会の孤独、社会変革の意識、家族といった近代日本の、そして現代に続く重要な主題が全部入っている。 「啄木の歌には万人が自分のふるさとへの思いを託せる普遍性がある」で結んでいる。 (注は私のコメント) 23歳頃の公正係の頃の生活の様子は「ローマ字日記」に具体的に書かれており、ローマ字で書けば妻の節子にはわからないと思っていたようです。 (読まれたくなかった。 )タバコ代工面のために本を質入したり、売ったり、会社からの前借は常習。 浅草通いの遊び人であった。 年配の方も、若い頃は諸々の葛藤や、青春時代の淡い思い出があり、啄木の歌や、生き方に共感する方も多いのでは。 うそつき啄木の残した歌は、それぞれ読む人の年代、経歴と融合して評価され、共感され今後も読まれて行くこと間違いはなし。 歌人の歌の背景の一面を掘り下げて行くのも面白いものがあるとつくづく思いました。 啄木の友人の一人の牧水はどのように評価していたか、機会があったら取り上げてみようと思います。 当時の思想は如何に 「時代閉塞の現状」のメモ (強権、純粋自然主義の最後および明日の考察) 見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。 ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。 彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。 しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。 そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。 もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。 また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。 時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。 今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。 しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から 奉職口 ( ほうしょくぐち )の心配をしなければならなくなったということではないか。 そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。 しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。 なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を 享 ( う )くるからである。 時代に 没頭 ( ぼっとう )していては時代を批評することができない。 私の文学に求むるところは批評である。 折口信夫 歌の円寂する時(歌論) 短歌と近代詩と で啄木につきて以下のように評している 啄木のことは、自然主義の唱えた「平凡」に注意を蒐あつめた点にある。 彼は平凡として見逃され勝ちの心の微動を捉えて、抒情詩の上に一領域を拓(ひら)いたのであった 併し其も窮極境になれば、万葉人にも、平安歌人にも既に一致するものがあったのである。 唯、新様式の生活をとり入れたものに、稍(やや)新鮮味が見えるばかりだ。 そうして、全体としての気分に統一が失われている。 此才人も、短歌の本質を出ることは出来なかったのである 若山牧水 平成24年2月10日 久々に海が見たくて千本浜に出かけました。 防波堤をブラブラしていたところ、牧水記念館を想いだし、二百円はらって見学しました。 以前より一度入ってみたいとは思っていましたが、なんとなく敷居が高そうで見合わせていました。 何処の記念館にもあるような内容で原稿、手紙、写真、掛け軸、本などが展示してあります。 下書き、手帳の類を見ましたが、字がそれほど綺麗でないのにホットしました。 以前より牧水にかかわるHPなどで色々調べ,大方の知識は持っていました。 また牧水の歌碑を写真に撮って歌碑のページに載せていました。 牧水は私が短歌を詠むきっかけの人で、酒にまつわる歌に感銘を覚えました。 細かいことは牧水記念館のHPとか、生誕の地のHPで細かいことが紹介されています。 従ってここでは自分の知識の整理を兼ねて紹介していきます。 館内に与謝野晶子没後70年短歌文学賞のチラシがあり、投稿には一首につき千円かかる。 角川短歌は二千円とか。 どうも相場はこんな所か。 ただなら投稿してもと思います。 与謝野晶子の歌を以前何点か読んだことがあり、面白い人だと思っていました。 チラシの中に「 歌はどうして作る。 じっと観、じっと愛し、じっと抱きしめて作る。 なにを。 真実を。 」が書かれていました。 参考にしたい。 夫である与謝野鉄幹の歌碑が御瀬崎にあるようなので機会があったら写真に撮りたいと思います。 牧水記念館 この掛け軸は十万円 (長野県哲西町二本松峠で詠む) 千本浜の公園にある歌碑「幾山河・・・」 全国で最初の歌碑だそうです 西伊豆の土肥の旅館で土肥館(牧水館)にも牧水にまつわる品が展示されているそうです。 年譜 明治18年(1885) 0歳 8月24日 宮崎県東臼杵郡東郷村坪谷に医師である父立蔵と母マキとの間に生まれる。 明治29年(1896) 10歳 延岡高等小学校に入学。 明治32年(1899) 14歳 県立延岡中学に入学。 明治34年(1901) 16歳 延岡中学「校友会雑誌」第1号に短歌と俳句を発表。 「中学文壇」に短歌を投稿。 佐佐木信綱選で入選。 明治36年(1903) 18歳 「中学世界」に「牧水」の名で投稿。 以後はすべて牧水の名で発表。 明治37年(1904) 19歳 早稲田大学に入学。 同級の中林蘇水、北原射水(白秋)と「早稲田の三水」と称した。 明治39年(1906) 21歳 土岐善麿、佐藤緑葉らと回覧雑誌「北斗」を発行。 帰省の途中、友人の下宿先で園田小枝子と出会う。 明治40年(1907) 22歳 次第に小枝子に惹かれる。 この頃から純文学者として身を立てる決意を固め、短編小説を発表する。 明治41年(1908) 23歳 7月 第1歌集『海の声』出版。 文芸誌「新文学」創刊の計画を進めるが、資金難で断念。 明治42年(1909) 24歳 中央新聞社に入社。 しかし5ヶ月後に退社。 明治43年(1910) 25歳 1月 第2歌集『独り歌へる』出版。 4月 第3歌集『別離』出版。 歌壇の注目を集める。 明治44年(1911) 26歳 1月 創作社を興し雑誌「創作」を編集。 歌人太田水穂の家で後に妻となる太田喜志子と出会う。 9月 第4歌集『路上』出版。 明治45年(1912) 27歳 3月 「牧水歌話」出版。 4月 石川啄木の臨終に立ち合う。 5月 太田喜志子と結婚。 大正 2年(1913) 28歳 4月 長男旅人誕生。 8月 「創作」復活号の編集に取りかかる。 9月 第6歌集『みなかみ』出版。 大正 3年(1914) 29歳 4月 第7歌集『秋風の歌』出版。 「創作」の経営に行き詰まる。 大正 4年(1915) 30歳 3月 喜志子の健康上の理由で神奈川県北下浦に転居。 4月 「傑作歌選若山牧水」「行人行歌」出版。 10月 第8歌集『砂丘』出版。 11月 長女みさき誕生。 大正 5年(1916) 31歳 6月 散文集「旅とふる郷」、第9歌集『朝の歌』出版。 11月 自選歌集「若山牧水集」出版。 12月 北下浦から東京へ戻る。 大正 6年(1917) 32歳 2月 「創作」を復刊。 同月「和歌講話」 4月 「わが愛誦歌」出版。 8月 喜志子との合著となる第10歌集『白梅集』出版。 大正 7年(1918) 33歳 5月 第12歌集『渓谷集』 出版。 7月 第11歌集『さびしき樹木』 、 散文集「海より山より」出版。 大正 8年(1919) 34歳 4月 次女真木子誕生。 9月 紀行文集「比叡と熊野」を出版。 大正 9年(1920) 35歳 2月 選歌集「花さける廣野」出版。 東京から沼津への移住を決意。 8月15日に沼津町在 楊原村上香貫折坂へ移住した。 12月 「批評と添削」を出版。 大正10年(1921) 36歳 3月 第13歌集『くろ土』出版。 6月 前田夕暮選による「若山牧水選集」出版。 7月 紀行文集「静かなる旅をゆきつつ」出版。 大正11年(1922) 37歳 6月 選歌集「路行く人々の歌」出版。 10月 「みなかみ紀行」として有名な旅に出る。 東京、小諸草津、暮坂峠、沼田、金精峠を経て日光を回る。 12月 「短歌作法」出版。 大正12年(1923) 38歳 4月 沼津で「創作社全国社友大会」を開催。 5月 第14歌集『山桜の歌』出版。 大正13年(1924) 39歳 5月 童謡集「小さな鶯」出版。 7月 紀行文集「みなかみ紀行」出版。 大正14年(1925) 40歳 2月 沼津市本字に500坪の土地を買う。 2月 随筆集「樹木とその葉」出版。 10月 念願かない約80坪の新居が完成する。 12月 自選歌集「野原の郭公」出版。 大正15年(1926) 41歳 5月 宿望であった詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。 多方面から称賛を受ける。 8月 静岡県当局の千本松原伐採計画が持ちあがる。 新聞に伐採反対意見の寄稿をし、計画は中止される。 「詩歌時代」は資金難のため10月号をもって廃刊。 昭和 2年(1927) 42歳 5月 喜志子を伴い朝鮮へ揮毫旅行に出かける。 昭和 3年(1928) 43歳 8月 健康がすぐれなくなる。 9月 初旬から衰弱が目立つ。 17日永眠。 享年43歳。 千本山乗運寺に眠る。 昭和13年(1938) 9月 牧水没後満10年を記念して 第15歌集『黒松』 が喜志子夫人と大悟法利雄氏によって編まれる。 (牧水記念館HPより) 沼津近辺に歌碑が多くあり、生誕の宮崎ほどではないが、長野県にも相当あります。 喜志子の出身地が長野県であることと 関係していそう 最初に目にした歌碑 香貫山にある歌碑 この歌碑をみて、若山牧水について調べる内に 「酒」の歌に感心して短歌の真似事を始めました。 香貫山の香稜台の歌碑 始めの頃は、この歌を見て、何も感じませんでした。 香貫山 いただきに来て吾子とあそび ひさしくおれば 富士はれにけり 千本浜公園の歌碑 この歌は調子よく、かつ奥が深そうだと思って見ていました。 幾山河 こえさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞけふも旅ゆく 酒にまつわる気に入った歌 私も酒は好きな方で、以下の歌はまさに同感し、思い当たる所が多い 白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり 妻が眼を盗みて飲める酒なれば 惶てて飲み噎せ鼻ゆこぼしつ それほどにうまきかと人のとひたらば なんと答へむこの酒の味 酒ほしさまぎらはすとて庭に出つ 庭草をぬくこの庭草を てつびんのふちに枕しねむたげに とくり傾くいさわれもねむ 寂しみて生けるいのちのただ一つの みちづれとこそ酒をおもふに ときをおき老樹の雫おつるごと 静けき酒は朝にこそあれ かんがへてのみはじめたる一合の 二合のさけの夏のゆふぐれ 人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ『黒土』 富士山(沼津近辺)を詠んだ歌 冨士を詠んだ歌は歌碑のページに、他『黒土』『山桜の歌』『渓谷集』に多く出てくる (静岡県)の多くに,富士を詠んだ歌が多い。 香貫山の近くに、城山公園がありますが、そこの歌碑が気に入っています 天地の こころあらはにあらはれて 輝けるかも富士の高嶺は 気になる歌 白浜や居ればいよいよ海とろみ冬日かぎろひ遠霞立つ『寂しき樹木』 たのしきはわれを忘れて暁の峰はなれゆく雲あふぐ時『寂しき樹木』 膳にならぶ飯も小鯛も松たけも可笑しきものか酒なしにして『寂しき樹木』 瀬のなかにあらはれし岩のとびとびに秋のひなたに白みたるかな『渓谷集』 なだらかにのびきはまれる富士が嶺の裾野にも今朝しら雪の見ゆ『渓谷集』 人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ『黒土』 愛鷹の真くろき峯にうづまける天雲の奥に富士はこもりつ『黒土』 ゆく水のとまらぬこころ持つといへどをりをり濁る貧しさゆゑに『黒土』 うす雲と沖とひといろに煙りあひて浜は濡れゆく今朝の時雨に『黒土』 笠なりのわが呼ぶ雲の笠雲は富士の上の空に三つ懸りたり『山桜の歌』 わがゆくやかがやく砂の白砂の浜の長手にかぎろひの燃ゆ『山桜の歌』 夏雲の垂りぬる蔭にうす青み沼津より見ゆ富士の裾野は『山桜の歌』 うすべ にに葉はいちはやく萌えいでて 咲かむとすなり山桜花『山桜の歌』 女郎花咲きみだれたる野辺のはしに一むら白きをとこへしの花『山桜の歌』 さびしさよ落葉がくれに咲きてをる深山りんだうの濃むらさきの花『山桜の歌』 白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ 揮毫に使われた歌 わが登る天城の山のうしろなる 富士のたかきは仰ぎ見あかぬ むらさきに澄みぬる富士は短夜の あかつき起きに見るべかりけり 山川にわける霞の昇りなづみ しきたなびけば富士は晴れたり 火の山の老樹の樅のしろがねの みきを叩けば葉の散り来る 光なき命のありて天地に 生くとふことにいかに寂しき てつびんのふちに枕しねむたげに とくり傾くいさわれもねむ 園の花つぎつぎに 秋に咲きうつる このごろの日の 静けかりけり かすみあふ四方のひかりの春の日の はるけき崎に浪の寄る見ゆ 寄り来りうすれて 消ゆる水無月の 雲たえまなし富士の 山辺に ひむがしの白み そむれば物陰に 照りてわびしき 短夜の月 みづ痩せし秋の川原のかたすみに しづかにめぐる水ぐるまかな めぐらせる籬の楓もみぢして 桐のはたけは寂びにけるかも つめたきは山ざくらのさがにあるやらむ ながめつめたきやまざくら花 冬山にたてる煙ぞなつかしき ひとすぢ澄めるむらさきにして ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ 秋もかすみのたなびきてをり なまけつつ心くるしきわが肌の 汗ふきからす夏の日の風 いついつと待ちし桜の咲きいでて 今はさかりか風ふけど散らず わが庭の竹のはやしの浅けれど 降る雨みれば春は来にけり をさなくて見しふるさとの春の野の わすられかねて野火は見るなり よる歳のとしごとに願ふわがねがひ 心おちいて静かなれかし 松の実や楓の はなや仁和寺の 夏なほ若し山 ほととぎす 石こゆる水のまろみを眺めつつ こころかなしも秋の渓間に いざゆかむゆきてまだ見ぬ山をみむ このさびしさに君はたふるや かんがへてのみはじめたる一合の 二合のさけの夏のゆふぐれ ひそまりてひさしく見ればとほ山の ひなたの冬木かぜさわぐらし ときをおき老樹 の雫おつるごと 静けき酒は 朝にこそあれ うらうらと照れる光にけぶりあひて 咲きしづもれる山ざくら花 最後の歌 牧水の墓に刻まれているこの歌かと思ったが 聞きゐつつ たのしくもあるか 松風の 今は夢ともうつつともきこゆ つぎの作品らしい 酒ほしさ まぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を 芹の葉の茂みがうへに登りいてこれの小蟹はものたべてをり 柿本人麻呂 令和2年5月31日 記 「かきのもとのひとまろ」については調べる必要も感ぜずに思ってきたが、矢張り最低限度の知識は必要かと思い記録としてメモしてみました。 色々調べてみたがよくわからないのが本音、かってに目にしたHPを目を通して漠然と知識が整理された感じがする。 その内容を以下に記した。 某HP「古代探訪」より抜粋 柿本人麻呂の一生を邪推してみる。 邪推ですから、変更可能。 654年 大和郡、生まれ(人麻呂の若い時の歌が、大和国高市郡や、磯城郡の地名が多い。 ) 672年 19歳 壬申の乱(高市皇子と同年、壬申の乱で高市皇子の軍にいた か、目の当たりにしたか、戦の体験をしている。 ) 673年 20歳 舎人としてつかえる。 初めてみやつかえするものを、大舎人に仕えさせ、才能によって当職にあてよとある 680年 27歳 人麻呂歌集の七夕歌の一首が「庚辰」の年に作られている。 681年 28歳 小錦下の位を賜う。 (12月に柿本猿が賜うとある) 683年 30歳 朝臣の姓を賜う。 (11月に52氏が朝臣姓になっている、八色の姓で真人の次に高い位) 689年 35歳 (持統3年)草壁皇子崩御の歌を歌う。 696年 42歳 高市皇子崩御の歌を歌う。 700年 46歳 宮廷歌の終わり。 701年 47歳 羇旅の歌の始まり。 歌の聖と後世の歌人から尊敬される、天才のすごさを少し探ってみたいのである。 略体歌とは、助詞、助動詞、動詞の語尾などを省略したものである。 例をあげると、 略体歌-------水上 如数書 吾命 妹相 受日鶴鴨 (水の上に数書く如き吾が命妹に逢わむと祈誓ひつるかも) 以下、某HP「万葉集を読む」より抜粋 柿本人麻呂は、万葉歌人のなかでも、最も優れた歌人であったといえる。 万葉集は、長い時代にわたる大勢の人の歌を収録しており、歌風にはおのずから変遷が見られる。 人麻呂は、万葉の時代の丁度中間の転換期に現われて、それ以前の古代的なおおらかさを歌った時代から、人間的な肌理細やかな感情を歌うようになっていった時代とを橋渡しするような存在である。 そういう意味で、万葉の時代を象徴するような歌人である。 柿本人麻呂の生涯については、わからぬことも多いが、持統天皇の時代に、宮廷歌人として多くの儀礼的な歌を作ったことを、万葉集そのものが物語っている。 その歌は、古代の神話のイメージを喚起させて、雄大なものがある。 宮廷歌人としての人麻呂は、天皇や皇子たちの権威をたたえたり、皇族の死を悼んだり、折に触れて宮廷の意向に応えていたと思われる。 こうした宮廷歌人の役割は、古代における部曲の一つのあり方だったように思われる。 柿本人麻呂は相次いで失った二人の妻のために、哀切きわまる挽歌を作っている。 また、旅の途中に目にした死者を見ては、彼らの不運に感情移入して、歌わずにはいられなかった。 それらの歌に響く人麻呂の人間的な感情は、時代を超えて人びとの心を打つ。 日本の詩歌の歴史は、柿本人麻呂を得ることによって、豊饒さを持つことができたと言える。 万葉集の歌を見る限り、宮廷を離れた人麻呂は、和銅元年 708 以降、筑紫に下ったり 3-303,304 、讃岐国に下ったり 2-220~222 した後、石見国で妻に見取られることなく死んでいる 2-223。 万葉集には少なくとも八十首以上の歌を残している。 また万葉集中に典拠として引かれている「人麻呂歌集」は後世の編纂と思われるが、そのうち少なからぬ歌は人麻呂自身の作と推測されている。 勅撰二十一代集には二百六十首程の歌が人麿作として採られている。 古来、至高・別格の歌人、というより和歌の神として尊崇されてきた。 大伴家持 は倭歌の学びの道を「山柿之門」と称し 万葉集巻十七 、紀貫之 は人麿を「うたのひじり」と呼び(古今集仮名序)、藤原俊成 は時代を超越した歌聖として仰いだ(古来風躰抄)。 石見国高津の人麻呂神社創建は神亀元年 724 と伝えられている。 以下に歌を抜粋しました。 羇旅歌 玉藻刈る 敏馬 みぬめ を過ぎて夏草の野島の崎に舟近づきぬ (3-250) 【通釈】海女たちが海藻を刈る敏馬を過ぎて、夏草が生い茂る野島の崎に私の乗る舟は近づいた。 荒たへの藤江の浦にすずき釣る海人とか見らむ旅行く我を (3-252) 【通釈】 土地の人々は 藤江の浦で鱸を釣る漁夫と見ていることだろうか、舟に乗り旅をする私を。 ともしびの 明石大門 あかしおほと に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず (3-254) 【通釈】明石の海峡に船が入って行く日には、故郷から漕ぎ別れてしまうのだろうか、もう家族の住む大和の方を見ることもなく。 もののふの 八十 やそ 宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも (3-264) 【通釈】宇治川の網代木に阻まれてたゆたう波は進むべき方向を知らない。 そのように、我らの人生も様々の障害に突き当たり、行方は知れないのだ。 淡海の海夕波千鳥 汝 な が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ (3-266) 【通釈】淡海の海の夕波に立ち騒ぐ千鳥たちよ、おまえたちが啼くと、心も撓うばかりに昔のことが偲ばれるのだ。 夏野ゆく 牡鹿 をしか の角のつかの間も妹が心を忘れて思へや (4-502) 【通釈】草深い夏の野をゆく牡鹿の、生えそめの角ではないが、ほんの短い間もあなたの気持を忘れることなどあろうか。 雑歌 嗚呼見 あみ の浦に 船 ふな 乗りすらむをとめらが 玉裳 たまも の裾に潮満つらむか (1-40) 【通釈】今頃、鳴呼見の浦で船に乗っているおとめたちの美しい裾に、潮が満ちて寄せているだろうか。 大船に 真楫 まかぢ しじ 貫 ぬ き海原を漕ぎ出て渡る月人 壮士 をとこ (15-3611) 〔妻死にし後に、 泣血 きふけつ 哀慟 あいどうして作る歌 并せて短歌〕 うつせみと 思ひし時に 取り持ちて 我が二人見し 走出 はしりでの 堤に立てる 槻 つきの木の こちごちの 枝 えの 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹 いもにはあれど 頼めりし 子らにはあれど 世の中を 背 そむきしえねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾 あまひれ隠り 鳥じもの 朝 発 だち 行 いまして 入日なす 隠りにしかば 我妹子 わぎもこが 形見に置ける 若き児の 乞ひ泣くごとに 取り 与 あたふる 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と 二人我が寝し 枕 付 づく 妻屋 つまやのうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為 せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易 はがひの山に 我 あが恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば (2-210) 去年 こぞ 見てし秋の 月夜 つくよ は照らせども相見し妹はいや年 離 さか る (2-211) 去年見た秋の月は今年も同じように照っているけれども、その月を一緒に見た妻は、年月とともにますます遠ざかって行く。 衾道 ふすまぢ を 引手 ひきて の山に妹を置きて山道を往けば生けりともなし (2-212) 引手の山に妻を残して独り山道を行けば、生きている心地もしない。 草枕旅の宿りに 誰 た が 夫 つま か国忘れたる家待たまくに (3-426) 【通釈】旅の宿りで、誰の夫なのだろうか。 故郷へ帰るのも忘れて臥せっている。 家では妻が待っているであろうに。 土形娘子 ひぢかたのをとめを泊瀬の山に火葬せる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 こもりくの泊瀬の山の山の 際 まにいさよふ雲は妹にかもあらむ (3-428) 【通釈】泊瀬の山の山あいにたゆたう雲は、亡くなった娘子なのだろうか。 八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ (3-430) 【通釈】盛んに湧き上がる雲のようだった出雲娘子の黒髪は、吉野川の沖に漂っている。 柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら 傷 いたみて作る歌一首 鴨山の磐根し 枕 まける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ (2-223) 通釈】鴨山の岩を枕にして死んでゆく私のことを知らずに、妻は私の帰りをずっと待っているのだろうか。 あしひきの山河の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ち渡る (7-1088) いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の檜原に 挿頭 かざし 折りけむ (7-1118) 【通釈】昔ここを訪れた人も、私のする通りに、三輪の山林で檜 ひのき の枝を挿頭に折ったのだろうか。 我妹子 わぎもこ と見つつ偲はむ沖つ藻の花咲きたらば吾に告げこそ (7-1248) 【通釈】いとしいあの子と思いながら眺めよう。 沖の藻の花が咲いたら、私に告げてほしい。 巻向の 山辺 やまへ響 とよ みて行く水の水沫の如し世の人 吾等 われ は (7-1269) 【通釈】巻向山のあたりを轟かせて流れてゆく水の、 あっという間に消えてしまう 泡のようであるよ、この世の人間である私たちは。 天雲 あまくも のたなびく山に 隠 こも りたる 我 あ が下心木の葉知るらむ (7-1304) 【通釈】雲がたなびき、山は覆い隠されている。 そのようにひたすら隠した私のひそかな思いを、木の葉だけは知っているだろう。 久方の 天 あま の香具山この夕へ霞たなびく春立つらしも (10-1812) 【通釈】天の香具山は、今日の夕方、霞がたなびいている。 春がすがたを現したようであるよ 人の 寝 ぬ る 味寐 うまい は寝ずてはしきやし君が目すらを欲りて嘆くも (11-2369) 【通釈】世の人が寝る快い眠りを私は寝ることができずに、愛しいあなたに一目逢いたいと、そればかりを願って歎くことだ。 大野らに小雨降りしく 木 こ のもとに時と寄り 来 こ ね 我 あ が思ふ人 (11-2457) 【通釈】広い野に小雨が降りしきる。 木蔭に、ちょうどよいと、寄ってらっしゃいな。 我が恋する人よ。 沼津の隣の富士市の田子の浦港富士埠頭にある山部赤人の万葉歌碑が、「ふじのくに田子の浦みなと公園」に移設されるとのこと。 田子の浦ゆ 打ち出て見れば 真白にそ ふじの高嶺に 雪はふりける 百人一首では 田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ 以前よりこの歌は知っていましたが、歌碑があることを始めて知りました。 この作者をもっと調べてみようと思いました。 この歌は長歌に対する反歌とのこと 長歌は 天地の別れし時ゆ、神さびて、高く貴き駿河なる富士の高嶺を、天の原振り放け見れば、渡る日の影も隠らひ、照る月の光も見えず、白雲もい行きはばかり、時じくぞ雪は降りける、語り継ぎ言ひ継ぎ行かむ、富士の高嶺は 意味: 天地が分かれてこの地ができて以来、神々しく高く貴い、駿河の国の富士の山を、空に向かって仰ぎ見ると、太陽の光も隠れ、月の光も見えず、雲 くも も山に行く手をさえぎられ、ひっきりなしに雪が降っています。 この富士の山のことをいつまでも語り継いで行こうと思うのです。 長歌と反歌について 今まで、長歌のある歌は読まないようにしていました。 なんかめんどくさくて、避けていました。 今回この歌を契機に読むように心がける。 反歌と長歌が一体となって、詠み人の意図が詠われているのかな。 この歌は富士山が以下に高く雄大であるかを長歌で述べ、現実の富士の雪降る景色を反歌で詠っている。 やはりセットで霊峰富士の雄大さが現れてくる。 平成24年3月4日万葉歌碑が、「ふじのくに田子の浦みなと公園」に移設されたと新聞にあり、翌日雨の中を見に行く。 公園は駿河湾に面して造園され、今年中には完成されるとのこと。 河津桜、サルスベリ、黒松など色々な植物が植えられて駐車場、トイレ、遊戯場などかなり広い。 今度は天気のよい、富士の見れるときに又来たい。 田子の浦はシラスの名産地として有名。 平成25年11月19日以下の写真撮影 山部 赤人-山部宿禰赤人 やまべのすくねあかひと)(やまべ の あかひと、生年不詳 - 天平8年(736年)? )は、奈良時代の歌人。 三十六歌仙の一人 その経歴は定かではないが、『続日本紀』などの史書に名前が見えないことから、下級官人であったと推測されている。 神亀・天平の両時代にのみ和歌作品が残され、行幸などに随行した際の天皇讃歌が多いことから、聖武天皇時代の 宮廷歌人だったと思われる。 作られた和歌から諸国を旅したとも推測される。 同時代の歌人には 山上憶良や 大伴旅人がいる 柿本人麻呂とともに 歌聖と呼ばれ称えられている 自然の美しさや清さを詠んだ 叙景歌で知られる。 万葉集には五十首載っているらしい。 要するに奈良時代の叙景歌を詠み、宮廷歌人で、歌聖といわれ、同時代に山上憶良や大伴旅人がいたということらしい。 ここで気になることは、歌聖と呼ばれているもう一人の柿本人麻呂とはどんな歌を詠んだのか、山上憶良、大伴旅人とは。 そもそも万葉集とは聞いたことがあるが具体的なことは知りません。 そんな所も加味して調べてみようと思います。 万葉集については参考コーナーで素朴な疑問から調べて載せる予定です。 沼津アルプスの一つに徳倉山があり、別名を動物のゾウに似ていることから象山(ぞうやま)と呼んでいますが次の歌が気になっていました。 「きさやま」とは? み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の 木末(こぬれ)には ここだも騒く鳥の声かも 歌をネットで調べると 山部宿禰赤人の作る歌二首 并せて短歌 やすみしし 我ご大君の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣 あをかき ごもり 川なみの 清き河内 かふち ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧立ち渡る その山の いや益々 しくしく に この川の 絶ゆること無く ももしきの 大宮人は 常に通はむ 反歌二首 み吉野の 象山 きさやま の際 ま の 木末 こぬれ には ここだも騒く 鳥の声かも ぬば玉の夜の更けゆけば 久木 ひさき 生 お ふる 清き川原に千鳥しば鳴く 通釈】 [長歌] 我らの大君が堂々と営まれる吉野の宮は、幾重にも重なる青垣のような山に囲まれ、川波の清らかな川内である。 春の頃は花が枝もたわわに咲き誇り、秋になればいちめん霧が立ちこめる。 その山のようにさらに幾たびも幾たびも、この川のように絶えることなく、大宮人はいつの世もこの宮に通うことであろう。 [反歌一] 吉野の象山の山あいの梢では、こんなにも数多く鳥が鳴き騒いでいることよ。 [反歌二] 夜が更けてゆくにつれ、久木の生える清らかな川原で千鳥がしきりに鳴いている。 長歌に対する反歌の一つとして詠われていました。 「きさ」は動物の象の古名。 やはり動物の象でした。 この頃すでに象がいた? そこで更に検索して行くと以下のページが見つかりました。 ・・・・・ 象山 きさやま は奈良県吉野町宮滝の南正面にあり、稜線が象の形に見えるところから その名があります。 「きさ」は象の古名で象牙の横断面に? キサ すなわち木目に似た文様が 見えることに由来するそうです。 象の渡来は江戸時代とされていますが、万葉人は正倉院御物に描かれた絵や 象にまたがる普賢菩薩像を見てその姿形を知っていたのでしょう。 この歌は725年聖武天皇が吉野離宮へ行幸された折に詠われたもので、 長短歌3首で構成されています。 長歌で柿本人麻呂以来の土地褒めの伝統を踏まえて天皇を讃え、短歌二首では 朝廷賛歌より自然の叙景を前面に打ち出しており、従来の行幸歌の殻を破った 万葉傑作の詠とされています。 ・・・・・以上 以下の写真が象山らしいが、象のかげなし。 沼津アルプスの象山のほうが俄然象山といえる。 なにはともあれ、ゆっくりこの歌を賞味できれば幸いです。 深々 しんしん と更けゆく夜。 静寂 しじま の間から鳥の声が聞こえてくる。 耳をすますと玲瓏と響く川の音と千鳥の澄んだ声。 瞑想することしばし。 昼間に見た清々しい川原と緑鮮やかな木々。 そして飛び交う様々な鳥たちの姿が目に浮かぶ。 それはあたかも眼前でその情景を見ているようだ。 やがて口元から朗々とした調べが。 「 ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる - -」 かくして1300年後に絶賛される名歌が誕生しました。 それは、心の集中から生まれた鮮やかな写生とも言える 静寂の極致です。 こんな感じで歌を味わうらしい。 味わい方のサンプルとして載せてみました。 平成24年3月24日 狩野川河口より象山を写す(沼津の象山 沼津アルプスの一つ徳倉山の別名) 左より、鼻で頭で胴体と 象に見えます 代表的な歌 の解釈 春の野にすみれ摘みにと 来 こ し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける 【通釈】春の野に菫を摘みにやって来た私は、その野に心引かれ、離れ難くて、とうとう一夜を過ごしてしまったよ。 あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも 【通釈】山桜が何日も続けてこのように咲くのであったら、これ程ひどく恋しがったりするだろうか。 枝に雪が積もっているので。 明日よりは春菜摘まむと 標 し めし野に昨日も今日も雪は降りつつ 【通釈】明日からは春の若菜を摘もうと標縄を張っていた野に、昨日も今日も雪が降ってばかりで…。 阿倍 あへ の島 鵜 う の住む磯に寄する波 間 ま なくこのころ大和し思ほゆ 【通釈】阿倍の島の鵜の棲む磯に寄せる波のように、絶え間なくこの頃大和のことが思われることだ。 みさご居る 磯廻 いそみ に 生 お.

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